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目を開けたそこに拓真の顔があって私は驚いた。診察後、ベッドの上に体を横にしてから、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。慌てて起き上がろうとしたのを、拓真の手が支えてくれた。
「ありがとう。寝ちゃってた……」
「安心して気が緩んだんだろう。あぁ、顔色もだいぶ戻ってきたみたいだね。頬も少しは腫れが引いたかな。唇、切れたところも大丈夫そうだね」
拓真はほっとした顔をして、私の頬を撫でる。
くすぐったくて思わず首をすくめると、カーテンの向こうから高階の声が聞こえてきた。
「他にも、肩につかまれたような痕や、後頭部にはぶつけた痕なんかもあったけど、どれもそんなにひどいものじゃなかったから安心していいわよ。診断書もできてるわ」
拓真はカーテンを開けて高階に礼を言う。
「色々とありがとう。絵未子さんがうちの医者で良かったよ」
高階は肩をすくめて笑う。
「それはどうも。ところで拓真君、当然笹本さんのことは送っていくんでしょうね」
「もちろんさ。碧、これ。田苗さんから持って来てもらった荷物」
拓真はバッグとコートを私に見せる。
「ありがとう。……やっぱり一度、課に顔を出そうかな」
「体調不良で早退って言ってあるし、課長もすでに事情を知ってる。だから今日は帰ろう」
部長だけでなく、課長もその事情をどこまで知ったのか気になった。今回の件は、言ってみれば「痴情のもつれ」というものだ。そう思うと彼らと顔を合わせるのはとても気まずい。
表情を曇らせた私に拓真は言う。
「理由はどうあれ碧は被害者なんだ。部長も課長も君のことをとても心配していた。そうだ。課長から伝言があるんだ。『週明けも何日か休んだって構わない』だってさ」
こんなことがあった後に休んでは、逆に変な噂になりそうだ。田中の気遣いは嬉しいが、週明けはあえて普通に出勤しようと思う。田中には後で電話を入れておこうと考えてから、ふと疑問が浮かぶ。
拓真君に伝言を頼んだということは、私たちの関係も知っているということ――?
私が何を思ったのか、拓真はすぐに悟ったらしい。
「部長と田中課長は知ってるよ」
「やっぱり……」
「話の流れ上、どうしてもね……。まずは帰ろう。色んな話はそれからだ」
拓真に促されて、私はベッドから下りて身支度を整える。
彼が私にコートを着せ掛けるのを、高階が微笑まし気に眺めていることに気づき私は赤面した。
「こういうの、いつもじゃありませんから……」
「そんなに焦って言い訳しなくても大丈夫よ」
高階の頬が緩んでいるのを見て、私は慌てて頭を下げて礼を言った。
「あの、ありがとうございました」
「ふふっ、お大事にね」
生暖かい目で高階に見送られて、私は拓真と一緒に医務室を後にした。
「あ、私のバッグ」
私は慌てて拓真の方へ手を伸ばした。バッグを彼に持たせたままだった。
しかし、彼はひょいと私の手からそれを遠ざける。
「俺が持つよ」
「自分で持つわ」
「いいからいいから」
拓真の口調から、私に持たせる気がないことを悟る。私は呆れ気味に、けれど素直に礼を言った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼はにこっと笑い、自分の肩に私のバッグをかけ直した。
「車はもう待機してるはずだから」
「タクシー、手配してくれたの?」
「あぁ」
「素早いね」
「そう?」
どこか得意げに笑う拓真の顔を見たら、気持ちが和らいだ。
「拓真君、色々ありがとう」
「当然のことをしただけだよ」
彼は微笑み、私の手を握りしめた。
「うちに帰ろう」
拓真の部屋に着いて、ルームウェアに着替えてからリビングに出て行くと、すでに着替え終えた彼はお茶の準備をしていた。私の顔を見て訊ねる。
「今夜はピザ、頼んでもいい?」
「もちろんいいけど……。私、何か作ろうか?」
「いや、碧は大変な目に遭ったんだから、ゆっくりしていて。それに、今日は色んなことがあったしね。たまには楽しよう。話しておきたいこともたくさんあるから」
「話……。そうね」
私が医務室にいた間のことを聞かなければと思う。それだけではなく、いくつか心に引っ掛かっていることもある。それについても確かめたい。
「じゃあ、注文しましょうか」
私は携帯を手にしてピザのデリバリーのメニューを開いた。
注文を終えたところで、拓真が私をソファに促す。
「まずはひと息入れよう」
彼はお茶を淹れたティーカップをテーブルの上に並べる。それから私の隣に座り、そのうちの一つに手を伸ばした。
それに倣って私もティーカップを手にした。そっと口をつけてみると、程よい熱さ加減になっている。それが喉の奥に伝い落ちて行って、ようやくほっとした気分になった。
「あの後のことだけど」
拓真がティーカップをテーブルに戻す。
私もまたティーカップを置いて拓真を見た。じっと耳を傾ける。
「結論から言うと、彼は解雇ということになった。辞令は明日にでも出る。彼はもう明日からはうちの社員ではなくなる」
「そう……」
私は脚の上でギュッと両手を組み合わせた。
今回のことが原因で彼は解雇されたということか――。
みぞおちの辺りがぎゅっと苦しくなる。
「確かに直接的な原因は、君に対して乱暴を働いたことだけど」
私の様子をちらりとうかがい、拓真は話を続けた。
「太田には反省している様子も、君に申し訳ないことをしたと詫びるような様子も見られなかった。自分は乱暴なんかしていない、偶々手が当たったりしただけだなんて、見え透いたようなことを言っていた。最後までシラを切り通すつもりでいたんだろうな。だけど今回のこと以外にも証拠は揃っていたから、こういう結果になったんだ。当然の流れだよ。彼への処分に対して、碧が責任を感じる必要はないからね」
「それはそうなんだけど……。やっぱりちょっとね」
太田からは色々とひどいことをされはしたけれど、こうなる前に、何か他の方法は本当になかったのだろうかと考えてしまった。それでも今後、少なくとも会社では太田の存在を気にする必要がなくなることに安堵してはいる。けれど、私と別れる意思についてはどうなのだろう。もしもまだ別れないと思っているとしたら、まだ完全には安心できない。
しかし拓真は私を安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だ。彼は君を諦めると言った。あの様子を見る限りそれは本当だと思う。それに、万が一にも手出しはさせない」
「その言葉を信じないわけじゃないけど、どうしてそんな風に言い切れるの?」
「それは……。しいて言えば、君が本当の意味で、かつほぼ公に俺の恋人になったから、かな」
少しだけ言いにくそうな拓真を訝しく思う。
「『ほぼ公』ってどういう意味?」
私は眉間にしわを寄せながら拓真の顔をのぞき込んだ。
「それは……」
なぜか拓真は目を泳がせている。
「拓真君?」
私はずいっと彼の方に身を乗り出した。
すると諦めたように拓真は口を開いた。
「伯父と父にね、言ったんだよね。話の流れで」
「何を?」
「碧は俺の婚約者になる人だ、って」
「え?」
私は目を見開いた。
拓真が慌てた様子で弁解する。
「ごめん。本当なら先に碧の意思を確認すべきことだったのに……」
今の話もそうだけれど、色々と引っ掛かることがある。
「ちょっと待って、拓真君」
私は頭の中を整理するように、こめかみの辺りを揉む。
拓真が居住まいを正したのが目の端に見えた。
「伯父と父って、誰のこと?話の流れって言ったけど、いつそんな話をしたの?」
拓真は観念したように、ふうっとため息を吐き出した。
「伯父って言うのは、大槻部長。父って言うのは、ここの社長のこと」
「えっ……」
私は絶句し拓真を見つめた。見つめているうちに、医務室で高階がちらと口にしたひと言が思い出されてくる。確かあの時――。
「拓真君って、常務、なの?」
恐る恐る訊ねる私に、拓真は苦笑を浮かべつつ頷いた。
「まだ『仮』みたいなものだけどね。時機を見て話そうと思っていただけで、決して騙していたわけじゃないんだ。それは信じて」
「拓真君が私を騙すとは思わないけど、でも」
私は半ば呆然としながら、拓真の顔をしげしげと見つめた。
「本当に常務なの?本当に?あ、でもそうか。社長と名字が一緒だわ。そんなはずはないって思っていたから、考えたことも疑ったことも全然なかったけど……」
頭の中はまだ混乱していたが、ひとまず頭に浮かんだ疑問を口にする。
「どうしてわざわざ管理部で、しかも私たち一般社員の中に混ざって働いているの?しかも『仮』って何?」
「一つずつ答えるね」
拓真は困ったように笑う。
「『仮』っていうのは、今はまだ実際の仕事は、専務である兄から習っているような状態だから。胸を張って『常務』だ『役員』だなんて申し訳なくて言えない」
「管理部にいるのは?」
拓真は一瞬迷うような顔を見せてから答えた。
「それは、碧がいたから」
「私が?……そう言えば」
拓真と約束をして二人で会い、色んな話をしたことがあった。
「あの日、今みたいなことを言っていたような気がするわね……。私がこの会社にいたからここに来た、だったかしら……」
「覚えてたんだね」
「そうね。だって、あまりにも印象的で衝撃的な理由に聞こえたから」
私はその時のことを思い出して苦笑いする。
「あの時は『転職』っていう言葉を使ったけれど、本当は違うんだ」
「どういう意味?最初から話してほしい」
私は拓真の目を覗き込んだ。
彼は私に一つ微笑みかけると、脚の上で両手を組んで、ゆるゆると話し始めた。