アベルはフェーデが自分自身を取り戻すのを見届けると、侍女に温かい紅茶を淹れさせた。ベッドに横になるフェーデにティーカップが手渡される。
息を吹きかけて少しずつ口をつけると、染み渡るぬくもりに心が落ち着いた。
アベルに催促すると、穏やかに笑って手を差し伸べてくれる。
愛しげに握ると。輝くような金の髪、青い瞳がこちらを見ていた。
思えば、アベルはすでに知っていた。
あの地下を見た魔法使いはアベルなのだ。婚約者がどんな扱いを受けてきたか、想像できないはずがない。
それでも、黙っていてくれた。
自分自身の手で、過去を受け入れることができるようになるまで、黙ってそばにいてくれた。
彼は本当に優しいひとだ。
その優しさを自分に向けてもらえるのが、本当に嬉しい。
「もし、やりたいことができたなら言ってくれ。どんな望みでも叶えてみせる」
「僕は、君の味方だ」
アベルがそんなことを言う。
困ったことに目が真剣だ。
そもそも、アベルがフェーデを愛すことになった発端は、地下に囚われていたフェーデを見たから。戦争を停めたのも、フェーデを救う為だった。
だとすると。
え、ちょっと。どこまで本気なの?
やめて、あなただと本当に何でもできてしまいそうだから。
そんなことを言って、わたしがヴィドール家を滅ぼしてって言ったらどうするつもりなの? 本当に滅ぼしてしまったら、また戦争が始まっちゃうじゃない。
国家間の安寧とわたしの気持ちを天秤にかけるなら、間違いなく国家を取るべきだ。
そんな、お伽噺みたいなこと……していいわけが。
ごとっと、寝室のドア向こうで音がする。
メイドだろうか、誰かがこちらの様子を盗み聞きしているようだった。
どのような形で伝わったかはわからないが、先ほど話したフェーデの過去が使用人の間で広まったら面倒なことになる。
使用人達の半数は元々戦場にいたアベルの部下だ。「ヴィドール家を滅ぼしましょうお嬢様」とまっすぐな瞳で言われた日にはわたしはどうするのだろう。
アベル王子の婚約者として和平の象徴として「そんなことはしなくていいの」と窘めることになるのだろうか。
「あいつら……」
アベルがドアを睨むと「ひっ」と女性の声がした。見えぬアベルの圧に気圧されたらしい。ぱたぱたと数人分の足音が去って行く。
きっと、さっきの過去は広まっていく。
もはや誰にも止めることはできないだろう。
厄介事が増えたはずなのに、どこか清々しい気持ちになった。
自分が、自分の中だけで終わらないのだ。他人を介してどこまでも続いていく。
内心で濁る暗黒が、夜ごと抱え続けた暗闇が、他人の物語に混じることで薄まっていくようだった。
このまま薄まり続ければ、いずれ夜明けの色になるだろうか。
フェーデは考える。
わたしが本当に望んでいるのはヴィドール家を滅ぼすことなの?
たとえば空から神が雷を落として、あの憎たらしい家族が死んだなら。確かにそれは少し愉快かもしれない。あまり好きになれないけれど、そうした自分も確かに存在している。
心が分かたれた今だからこそ、冷静に自分のことを考えることができた。
一体それはどれほどのものだろう。
さきほどのやり取りよりも、意味のあることだろうか。
心を鎮め。
自分自身を、凍り付いた心を見る。
前に比べればずいぶん透明になった気がした。
わたしは何が欲しい?
何を求めている?
そう自問すると答えはすぐに出た。
わたしは、わたしを、理解されたい。
苦しみと喜びのすべて、痛みと安らぎのすべてを語り。
自分自身の実在を証明したい。
だからそのために、こう答える。
「そうね。わたし、仕返しがしたいわ」
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