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海の紅月くらげさん
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第138話 雨の影、校舎の兆し
【異世界・転移した駅周辺/ホーム・午後】
雨はまだ強かった。
ガラス屋根を叩く音が、駅全体を薄く震わせている。
サロゲートが砕けたあとも、状況は楽にはならなかった。
正面の外壁側では、黒い獣影たちがまだ結界へ押し寄せている。
巨大狼影が、濡れた床を爪で削りながら唸る。
猪に近い塊が横から突っ込み、
さらに馬や牛ともつかない四足の影が、
破れた結界の縁を嗅ぐようにうろついていた。
ヴェルニは、焦げた外套を乱暴に払って前へ出る。
口元にはまだ笑みが残っていた。
戦いの熱が、消えていない。
「じゃ、残りも片づけるか」
アデルは一瞬だけヴェルニを見た。
無事を確認する視線。
だが、言葉は短い。
「正面を押し返す。右はリオ」
「了解」
「任せろ」
リオは腕輪へ魔力を通す。
同行の術師たちも、光癒の術を繋ぐ準備に入る。
アデルが剣を構え、低く詠唱した。
「〈大結界・第一級〉――光よ、駅前に“壁”を重ねて」
雨に削られながらも、薄い光膜が何枚も重なる。
ただ防ぐだけの壁ではない。
外の影を“足止めする”ための層だ。
その直後、ヴェルニが踏み込んだ。
「〈烈風・第四級〉――『まとめて吹き飛べ』!」
正面から突っ込んでくる狼影と猪影をまとめて、風圧が横から攫う。
巨体が雨の中でよろめき、進路が乱れる。
そこへリオの鎖が走る。
「〈捕縛・第三級〉――『鎖よ、絡め』!」
光の鎖が、狼影の首と前脚へ二重に巻きつく。
獣が唸り、床へ爪を食い込ませる。
だが、止まった。
その一瞬で十分だった。
「〈光癒・第二級〉――『灯れ、祓いの光』!」
治療班の術師の光が、狼影の裂け目へ当たる。
黒い煤がじゅっと縮み、青白い文字列が雨の中へ散った。
アデルの剣が、その崩れた箇所を断ち切る。
「〈光刃・第三級〉――『裂け』!」
狼影が、文字列の霧みたいに崩れ落ちる。
だが、終わらない。
次の四足が来る。
次の影が押す。
ヴェルニが低く笑った。
「数が多いだけなら、まだ楽だな」
両手を広げる。
風と炎。
二つの系統が、雨の中で無理やり噛み合う。
「〈爆風・第四級〉――『巻け』!」
「〈炎槍・第三級〉――『貫け』!」
爆ぜた熱と圧が、結界の外の四足影をまとめて吹き飛ばす。
完全には焼き切れない。
だが、ホームへ踏み込む勢いを削るには十分だった。
駅員たちが、人々をさらに中央へ寄せる。
「前へ! 明るいところへ!」
「車両には戻らないでください!」
リオはその叫びの向こう、
停車中の車両の窓や柱の陰を見た。
――いる。
普通の人みたいな輪郭。
サラリーマン風。
制服姿。
OL風。
だが、目が合わない。
影の中でじっとして、時々だけ、普通の声で何かを呟く。
「本日の運行は――」
「寒くないですか」
「遅刻します」
“獣”は押し返せる。
だが、“人のふりをしたもの”は駅の中に残る。
リオの喉がひりつく。
「……まだいる」
ヴェルニも舌打ちした。
「外の獣だけ片づけても、駅の中身が腐ってるってわけかよ」
アデルが短く言う。
「今は人の流れを崩さない。見えても追うな」
「中央を守るのが先だ」
その判断は正しい。
正しいが、嫌な正しさだった。
そして、どうにか正面の獣影の勢いが鈍り始めた、その時。
イヤーカフが鋭く鳴った。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館・午後】
雨が、体育館の窓を細かく叩いていた。
昼なのに薄暗い。
朝に作った“明るい場所”と“暗い場所を作らない”手順が、
どんどん追いつかなくなっている。
生徒たちは毛布や荷物を抱え、窓際から少し離れた場所で固まっていた。
先生たちは声を張る。
だが、人が多すぎる。
顔も多い。
声も多い。
その中に、“混ざり始める”。
最初に気づいたのは、保健の先生だった。
「……あなた、何組?」
通路の端に立っていた男子生徒。
制服も名札も合っている。
だが、返事が一拍遅い。
「……遅刻します」
場違いな言葉。
その瞬間、近くにいた生徒が悲鳴を上げる。
「その人、うちのクラスじゃない!」
ざわめきが一気に広がる。
先生が名前を呼ぶ。
別の子が「さっきまでいなかった」と泣きそうな声を出す。
その“男子生徒”の輪郭の端で、黒い煤がゆっくり揺れた。
ダミエが一歩前へ出る。
フードの下の目が細くなる。
「……そこ、止まれ」
低い声。
同時に、床へ薄い結界線が走る。
「〈封界・第二級〉――『線の内に留まれ』」
見えない壁が、通路を横切る。
“男子生徒”はそれにぶつかり、一瞬だけ足を止めた。
その輪郭がぶれる。
普通の生徒の姿の上から、黒い影が貼りついているみたいに見える。
その隙に、ダミエがもう一本、別の線を引く。
今度は通路を区切るための結界。
生徒と影を分けるための壁だ。
「先生。人、下げて」
短い指示。
教頭がすぐ叫ぶ。
「後ろへ! こっち側へ寄って!」
だが一体ではない。
体育館の別の端でも、女子生徒の姿をした影が立ち上がっている。
さらに、窓際の列の中に、教師の顔をした“何か”まで混ざっていた。
ダミエの目がわずかに険しくなる。
人が多すぎる。
顔が多すぎる。
見分けて、区切って、閉じ込めるには数が足りない。
サキがスマホを握りしめる。
「……また増えてる」
画面の点が、体育館の中で小刻みに揺れていた。
円を起動すれば消せるかもしれない。
だが、穴が増える。
ハレルは即座に首を振る。
「まだ使わない。ダミエがいる」
その言葉と同時に、体育館の奥、
使われていないロッカーの列の向こうで、白い線が一瞬だけ走った。
細い。
だが、明らかに“光刃”の軌跡に近い。
ハレルの背中が凍る。
「……今の」
ダミエも、視線だけそちらへ向けた。
雨音の奥。
ロッカーの陰。
そこだけ空気が少し違う。
何かが“戻ろうとしている”。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した駅周辺/ホーム・午後】
イヤーカフ越しに、ノノの声が飛び込んできた。
『リオ! 学園、まずい!』
『影の人型が体育館の中に混ざり始めてる!
ダミエ一人で切ってるけど、人が多すぎて追いつかない!』
リオの顔が変わる。
ホームの中央。
獣影。
雨。
その全部より先に、“体育館の中”が浮かぶ。
『それだけじゃない』
ノノの声が少し低くなる。
『変な反応がある。光刃に近い。……レアに似てる』
「……っ」
リオの喉が詰まる。
レア。
あの廊下の刃。
ハレルとサキに向いた光。
それが学園側でまた動こうとしている。
「アデル!」
リオが叫ぶ。
アデルは正面の獣影を断ち切りながら振り向いた。
リオの顔だけで、言葉の半分は分かる。
「学園か」
「ノノが。影が中に混ざってる。……レアっぽい反応まである」
一拍。
アデルの判断は早かった。
「行け」
短い一言。
「でも、こっちは――」
リオが言いかけると、ヴェルニが爆風で狼影を吹き飛ばしながら笑った。
「そっちは俺たちで回す」
「学園の中まで来られたら終わりだろ。だったら優先はそっちだ」
アデルも頷く。
「ここはまだ線が作れてる。学園の中は違う」
「行け、リオ」
リオは一瞬だけホーム中央の人々を見た。
次に、雨の中の学園の方向を見る。
迷っている時間はない。
「……頼む!」
そう言って、リオはホームから駆け出した。
雨を切り、駅舎の外へ。
学園へ向かって一直線に。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/西区・午後】
イルダの街でも、雨のせいで影の動きが濃くなっていた。
市場通りに薄く残っていたイデールの光が、雨で散る。
路地の暗がりから、猫影がまた跳ぶ。
人型の影も、屋根の下から普通の声で話しかけてくる。
「警備は予定どおりです」
「寒くないですか」
「助けて」
住民たちがまた悲鳴を上げ、光の筋へ逃げ込む。
イデールの班は必死に灯りを保つ。
「通りを消さないでえ!」
「そこ、ひとりにしないで!」
だが街の北側、
縛られて運ばれていた黒眼の兵士の指先が、今度ははっきりと動いた。
口元が歪む。
首元の影が濃くなる。
青白い文字列が、濡れた鎧の縁を一瞬だけ走る。
その動きは小さい。
だが、確実だった。
駅で砕かれたサロゲートの“片鱗”が、
イルダの兵士の体の中で、まだ生きている。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館・午後】
ダミエは、結界線を何本も引いていた。
通路を分ける線。
人を寄せる壁。
影を閉じ込める区画。
一人でできる範囲では、ほとんど限界だった。
“男子生徒”の姿をした影が、結界の内側で首を傾ける。
別の場所では、“教師”の姿をした影が、普通の声で
「落ち着いてください」と繰り返している。
それが一番気持ち悪い。
正しい言葉の形で混ざること。
人が多いほど、判別が難しくなること。
ダミエが短く息を吐く。
「……足りない」
ハレルはその言葉の意味を、十分すぎるほど理解していた。
ただ影が来るだけではない。
中に混ざる。
顔を借りる。
数で押す。
そしてロッカーの陰では、
また白い細い線が、一瞬だけ走った。
今度はさっきより長い。
まるで“刃が空気を試し切りした”みたいに。
サキの顔が青くなる。
「……来る」
誰が、とは言わなくても分かる空気だった。
雨音が、さらに強くなる。
体育館の中の光が、もう一段だけ痩せる。