馨と会った直後、母さんは姉さんに電話していた。だから、俺が電話した時、姉さんは状況を把握していた。俺よりも、詳しく。
馨と母さんの会話の内容を聞き、俺はホッとした。
俺が望まなければ、別れないってことだよな。
「春日野玲の父親が、お父さんの後援会長に名乗りを挙げているんですって」
「後援会長? ついに引退するのか? あのじじい」
父親の後援会長は、衆議院議員に初出馬した時から、祖父さんの後輩で土地成金のじいさん。子供の頃はよく家にも来ていて、俺も姉さんも可愛がってもらった。
「そ。だいぶ前からその話が出ていて、あんたと春日野玲《あの女》の結婚話で盛り上がってたらしいわ。そこにあの写真だもの。うちの親が馨ちゃんを認められるわけがない」
「最悪のタイミングだったってわけか……」
「そういうこと」
姉さんはグラスを空にし、同じものを注文した。
「それにしても……。どうして言わなかったの? 馨ちゃんとの結婚であんたが立波の後継者になること」
「馨から聞いたのか?」
姉さんが頷く。
本人が気づいているかはわからないが、隣の席の男が、さっきからいやらしい目で姉さんをチラチラ見ていた。
最初は俺を恋人だと思って気にする様子を見せなかったのに、会話の中で俺が『姉さん』と呼んでいるのが聞こえたらしく、全身を舐め回すように見始めた。
同じテーブルに恋人らしき女性が一緒なのに。
俺がジロリとわかりやすく睨みつけると、男はようやく姉さんから視線を外した。
「まだお父さんたちは知らないようだけど、あんたが自分の跡を継がずに他人の跡を継ぐなんて知ったら——」
「馨は姉さんを信頼してるんだな」
「え?」
姉さんのワインを持って来たバーテンダーに、俺はウィスキーを注文した。ロックで。
「姉さんはどう思う? 俺と馨の結婚」
「……今更ね」
「確かに」
「そうね……」
姉さんがワインを一口飲み、グラスを置いた。足を組み直した時、隣の男が再び姉さんを見た。
「無責任なことを言えば、とっとと籍を入れてしまえばいいと思うわね。それからゆっくり後継者云々を考えればいい」
それは、考えた。
だから、半ば泣き落としで馨に婚姻届を書かせた。いざという時の、保険として。
「けど、それは出来ないでしょうね」
「出来ない……か……?」
「出来たらとっくにしてるでしょう?」
「……だな」
ふっと、口元が緩む。
出来ないから、もがいてる——。
バーテンダーからグラスを受け取り、そのまま三分の一を口に含んだ。
「シビアなことを言えば、結婚を見直した方がいいのかもと思う」
それは、考えなかった。
いや、考えたくなかった。
『相手が俺じゃなきゃ、もっと簡単な話だった』
そう言って、ハッとした。
馨がそう思っていたら——。
馨が、もっと簡単に妹を守る方法を選んだら————。
「まぁ、これこそ出来るならこんなにこじれていなかったでしょうね」と、姉さんはため息をつく。
「そうだな」と、俺は苦笑いをした。
「理想を言えば、親を説得して馨ちゃんを認めてもらえたらいいと思う」
「ああ」
「ま、限界まで足掻いてみたら? ダメなら駆け落ちでもしたらいい」
駆け落ち……ね。
「簡単に言うのな」
「そうよ。一番簡単なことだもの。結婚、がゴールならね」
姉さんの言いたいことは、わかる。
俺と馨にとって、結婚はゴールではない。
黛から桜と立波リゾートを守るための、通過地点でしかない。
「で? どうするの?」
「じっと待つのは性に合わないからな。明日にでも父さんに連絡するよ」
「まずは真っ向勝負?」
「ああ。正直に現状と俺の考えを話す。……聞き入れてもらえるとは思ってないけどな」
物心がついてから、父さんとまともな話し合いが出来たためしがない。
根本的に、性格や考え方が合わない。
「春日野玲は?」
姉さんはよほど玲が気に入らないらしい。
『あの女』か『春日野玲』としか呼ばない。
馨のことは最初から『馨ちゃん』なのに。
「何も」
「何も?」
「今回の件、母さんが馨に接触しただけで、俺は直接関わっていないからな」
写真を撮られた時、玲への恋愛感情は全くないことを伝えた。俺絡みで馨を攻撃するのは許さない、とも。
それでも納得しないのは玲の問題であって、俺がどうこう出来ることではない。
「……なるほど? あくまでお家事情で片づけるつもりね」
「一緒に食事して、ちょっと肩を貸しただけで結婚騒ぎだなんて、冗談じゃない。俺は、親に馨との結婚を認めさせたいだけだ」
「同感ね。けど、馨ちゃんにはあんたの考えをちゃんと話してあげなさいよ? 心配させたくないのもわかるけど、何も知らされないことほど心配なことはないわよ?」
姉さんの言葉は、重みがある。
だてに二度も結婚と離婚を経験してはいない。
「姉さん」
「ん?」
「彼氏とは順調?」
「うん?」
「そうか……」
隣の男が席を立ち、今度は姉さんの胸元に視線を落とした。俺はもう一度男を睨みつけ、男は一緒に飲んでいた女性の腰に手を回して、店を出た。
支払っていたのは女性だった。
「姉さんの彼氏も苦労してるだろうな」
思うだけのはずが声に出ていて、テーブルの下で姉さんが思いっきり俺の足を蹴った。
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