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理玖に遅れて私の夏休みも終わり、久しぶりに出席した講義やゼミの場では、就職活動の結果が出始めたという声が聞かれるようになっていた。
私自身も、早いうちに試験を受けた企業からいくつか内々定をもらっていた。七月下旬に受けた本命の会社については、その時はまだ結果待ちだったが、十月中旬になって待ちわびていた内定通知が届いた。
これでようやく就職活動も落ち着いたとほっとしながら、ほぼ十日ぶりに土屋家に向かった。間が空いたのは、テスト中は家庭教師を休むという以前からの申し合わせによるものだ。
出迎えてくれた友恵に挨拶してから、就職活動にけりがついたことを一応伝えておこうと思った。
「実は……」
口を開きかけた私よりも早く、友恵がにこにこして言った。
「まど香先生、就職決まったんですって?」
どうして知っているのかと私は目を見開く。
「ニ、三日前に美和ちゃんに会ってね。その時に聞いたんですよ。おめでとうございます」
友恵がすでに知っていた理由が分かり納得した。内定通知を手にしたその翌日、私より先に就職活動を終えていた美和と二人で、お祝いだと言って飲みに出かけていた。
「ありがとうございます。実はそうなんです。無事に就職できそうで安心しました」
「良かったですねぇ。ひとまずはお疲れ様って感じかしらね」
「そうですね」
友恵は頷きながら私の話を聞いていたが、ふと眉を曇らせた。
「美和ちゃんから聞いたけど、就職したらS市に引っ越す予定なんですってね」
「そうですね。電車での通勤はちょっと辛そうなので」
「仕方ないですけど、なんだか寂しいわね」
友恵の言葉にほろりとする。
「そう言っていただけて嬉しいです」
「ところでまど香先生。いつまで来ていただけるのかしら?春休み前くらいまで?少なくとも年内はお願いしたいと思ってるんですけど」
「はい、それはもちろん。私の方はどちらでも」
「じゃあ、後で理玖と相談して、希望をお伝えしますね。あぁ、またこんなに先生のことを引き留めてしまって、理玖に怒られちゃうわ。二階へどうぞ。今日もよろしくお願いします。そうそう、来週、うちで夕食を食べて行く予定を入れておいてくださいね。ぜひお祝いさせて」
友恵は言ってから苦笑する。
「突然誘ったら迷惑だって、理玖に言われたのよね。だから、今のうちにお誘いしておきますね」
「お心づかい、いつもありがとうございます。予定に入れておきます。それでは、お邪魔します」
私は友恵にぺこりと頭を下げ、二階へと向かった。
理玖の部屋の前に立ち、ノックをしようとした途端、ドアが開いて驚く。
私からやや視線をはずして理玖が立っていた。表情が曇っている。
「やっと来た。どうぞ入って」
促されて部屋に入る。
椅子に座った途端、相変わらず私を見ないまま、理玖は硬い表情で言った。
「まど香さん、就職先、決まったんだってね」
「美和からの情報でしょ?本命の会社から内定もらったの。さっきお母様からもおめでとうって言っていただいたのよ。来週、お祝いにって、夕食に誘っていただいちゃった」
「おめでとうって言うべきなんだろうけど、言いたくない」
理玖はうつむき、膝の上で拳を握る。
「だって、S市に行っちゃうんだよね。そうなったら、簡単に会えなくなるじゃないか。まど香さんは、てっきりこっちの会社に就職するものだと思い込んでたよ……」
彼の言葉は、せっかく親しくなった相手が離れていくことへの寂しさからくるものだと分かっている。それでも心が揺れた。わざわざ彼に説明する必要はないのに、言い訳がましく言葉を並べてしまう。
「でも、ほら。私の実家はこっちだし、美和とは友達だからその関係で何かの機会に会うことだってあると思うし。それに遠いとはいえ、電車で二時間はかからないし……」
「そうかもしれないけど、寂しすぎる。今まで毎週のように会っていたのにそれがなくなるんだから……」
「でも、まだ数か月はこうやって来るわけだから」
「そういうことじゃなくて……」
何かを堪えるような顔つきで言ったきり、理玖は口をつぐんでしまった。その後は時折私に質問するくらいで、ひたすら黙々と課題に取り組んだ。その様子は、声をかけるのが躊躇われるほど大人しい。
初めて見る理玖の姿に戸惑った。彼の隣にいて緊張したことはあっても、今のような居心地の悪さを感じたことはなかった。だから、帰る時間がやって来た時は心底ほっとした。
「今日はもう終わりで大丈夫?」
私は恐る恐る訊ねた。
理玖はこくりと頷き問題集を閉じる。
その時、まだそこにあったシャープペンが転がって床に落ちてしまう。
「あっ……」
拾おうとして私は床に手を伸ばした。
同時に理玖も手を伸ばしたため、互いの頭がごつんとぶつかり合ってしまった。
「いたっ!」
二人して声を上げた。私たちは腕を伸ばしたままの体勢で、互いに顔を見合わせた。一瞬の間の後、どちらからともなく吹き出す。
「あははっ、ごめんね」
「結構すごい音がしたよ。まど香さん、大丈夫だった?」
笑い合いながら体を起こし、私たちは今日初めて向き合う。
今の小さなハプニングのおかげで、私たちの間の空気がいつものように柔らかくなった。
笑いを収めた理玖が、気まずそうな顔で詫びる。
「さっき、変な態度を取ってしまって、ごめんね」
私は苦笑いを浮かべる。
「そうね。ちょっと居心地が悪かった」
「っ……。すみませんでした」
理玖はため息をこぼす。
「今までみたいに会えなくなると思ったら、寂しくてしょうがなくてさ」
そこに特別な感情はないと自分に言い聞かせ、私は微笑む。
「そんな風に言ってもらえて嬉しいわ。ありがとう」
「だって、本当だから。ね、まど香さんはどうなの?」
「どうって何が?」
「だから、俺と同じように思ったりしてないのかな、って」
「それは、やっぱり寂しいわよ」
それ以外の意味が混ざらないよう注意して言ったつもりだった。しかし意識しすぎてしまったか、声がかすれてしまった。
理玖が不満そうに、あるいは拗ねたように、唇を尖らせる。
「それだけ?」
「それだけって、他に言い方なんてないと思うけど」
「それはそうなんだけど」
理玖はふっとため息をついて、私を見た。
「期末テストが終わったら、なんだけど」
また一緒にどこかに行きたいとでも言うのだろうと、彼の言葉を予想する。
「ご褒美なら、条件を達成したらね。でも、特別に少し緩くしてあげる。理玖君のお願いを聞いてあげられるのも、最後になるかもしれないから」
「それなら、またまど香さんと遊びに行きたいな。冬休みになったらS市に行こうよ」
私は首を傾げた。
「S市?どうして?」
「十二月半ばごろから年末にかけて、イルミイベントがあるでしょ。それ、見てみたいんだよね」
理玖と遊びに行くのは別にいい。ただ、S市のイルミイベントは、クリスマスシーズンと重なることもあって、カップルだらけのイメージしかない。時期をずらしても、きっとカップルがごろごろしているだろう。そんな所に、彼氏彼女でもない私と理玖の二人で行くのはどうなのかと、気が進まない。そんな場所で一緒に過ごしたら、この気持ちがさらに大きく育ってしまうのではないかと不安になる。
「別にS市じゃなくてもいいんじゃない?地元でも十分楽しめるでしょ。またあのカフェに行ってもいいし、映画を見てもいいし」
「でも地元を離れた方が、まど香さんは周りを気にせず楽しめるんじゃない?」
「それは……」
理玖の言う通りではあるけれど、わざわざS市のイルミを見に行くのはいかにもデートのようで、簡単には頷けない。
「夏休みに二人で遊んだでしょ?あの日、すごく楽しくて、嬉しかったんだ。だから、まど香さんがこの街を離れる前にもう一度だけ、あんな時間を過ごしたいって思ったんだよ。……あの日、まど香さんは楽しくなかった?」
訊ねられて私は首を横に振った。
「楽しかったわ、とっても」
「だったらもう一度、あぁいう時間を俺にください。勉強頑張るからさ」
じっと目をのぞき込まれて、私は観念する。
「……分かった。いいわよ、S市」
今回もまた理玖の押しに負けてしまったとため息がこぼれる。
彼は邪気のない顔で嬉しそうに笑っていた。