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その翌週、いつも通りに理玖の勉強を見た後は、友恵との約束通り夕食をご馳走になった。気づいた時には窓の外が暗くなっていた。
「ご馳走さまでした。そろそろ帰りますので」
「あら、もうこんな時間。ごめんなさいね。長々と引き留めちゃって」
「俺、駅まで送って来る」
「そうね、もうだいぶ暗いから、その方がいいわね」
「そんな、一人で大丈夫ですから」
「まぁそう言わず、まど香先生、行こう」
こうして私は今、駅までの道を理玖と並んで歩いている。
「まど香さん、結構食べてたけど、お腹は大丈夫?」
「うん。大丈夫よ。毎回だけど、お母様のお料理って美味しいから、ついつい箸が進んじゃうのよね」
「に、しても、今日は作りすぎだろって感じだったけどね。まど香さんって美味しい美味しいって言って食べてくれるから、作り甲斐があるんだってさ」
「だって本当に美味しいんだもの」
「言っとくよ」
理玖はくすっと笑い、口調を改める。
「まど香さん、俺の家庭教師、こっちにいる間は来てくれるって話、希望を聞いてくれてありがとう」
先週までは、年内いっぱいで終わりと言われても構わないという気持ちだった。けれど、実際にはあと二か月ほどしかなく、回数にしたら十回にも満たないと思ったら、せめてもう少し、ぎりぎりまで、この生徒と繋がっていたいという思いが湧き起こってしまった。だから、私が卒業するまではお願いしたいと理玖から頼まれ、そのことに友恵も同意してくれた時はとても嬉しかった。その気持ちの根っこにある本心を隠して、私は家庭教師としての笑顔を作る。
「それまではしっかりとサポートするから、いくらでも頼ってね」
理玖は神妙に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「そう言えば、中間テストの結果もすごく良かったね」
「ご褒美、先にもらったからだね」
あの日ハグされたことを思い出して赤面する。
「そ、それは良かったわ……」
小声で言う私を横目で見て、理玖はくすっと笑う。あれくらいのハグごときで照れたのかと思われてのことだとしたら、少しだけ悔しいような気がする。
「ところで、期末テストの約束、忘れてないよね」
「ちゃんと覚えてるわよ。S市に行きたいんでしょ?」
「うん。イルミはもちろんなんだけど、もし時間があれば、実は他にも行きたい所があるんだよね」
「どこ?」
「プラネタリウム」
「S市にあるの?」
「うん。ずっと昔、子どもの頃に連れてってもらったんだけど、それきりでさ。何年か前に移転して綺麗になったらしくて、チャンスがあったら行きたいって思ってたんだ」
「プラネタリウムかぁ。私は行ったことないなぁ」
「だったらぜひ、まど香さんを連れて行ってあげたい」
「ふふっ。じゃあテスト結果、楽しみにしているからね」
笑う私に理玖は力強く頷く。
「五教科全科目で平均八十点以上。これならクリアできる自信あるから、楽しみにしてて」
「頼もしいわね」
本当に理玖が条件を達成して、一緒に出かけることになったとしたら、その日をいい思い出にできるようめいっぱい楽しみたい。なぜならそれは、理玖との最後の外出になるだろうから。
「送ってくれてありがとう。また来週ね」
「うん。また来週」
駅から届く灯りに浮かんだ理玖の顔に、名残惜しさがにじんで見えた。しかしそれはきっと自分と同質のものではないのだと、そのことを切なく思いながら、私は彼に手を振り駅の改札に足を向けた。
後日、私の目の前に広げられた理玖の期末テストの結果は、これまで私が見た中で一番だった。五教科以外でも赤点はなく、私が出した条件は完全にクリア、いやそれ以上だった。
目を丸くてして驚いている私に、理玖は得意げな笑みを浮かべて言った。
「S市、いつにする?」
こうして決定したS市行き。
クリスマスを過ぎた後の平日に行くことにした。私も理玖も学校の冬休みに入った後だからちょうどいい。イルミネーションイベントのシーズン中、街中はきっと混んでいるはずだが、クリスマスと土日を外せば多少はマシだろうと考えてのことだ。
当日は、S市に着いたらまずお昼を食べ、その後にプラネタリウムを観覧し、イルミネーションを見てから帰って来ようという計画だ。そのため午前中のうちから地元を出発することにする。
その日乗換駅で待ち合わせて、私たちはS市へ向かう。乗り込んだ電車は思っていたより混んでおらず、出入り口に近い端の席に座ることができた。
S市に着き、電車から降りた私たちは、まずは駅ビルの中の飲食店街に足を向けた。そこで適当な店を見つけて入り、腹ごしらえをする。その後はバスを利用して、最初の目的地、プラネタリウムのある天文台に向かう。三十分ほどバスに揺られて天文台前のバス停に到着したのは、投映開始時間のニ十分前だった。足早になった理玖の後を追い、施設に急ぐ。
「間に合ったね」
建物の中に入り、ほっとして理玖を見ると、彼の表情にはワクワクとそわそわが同居していた。
微笑ましく思いながら受付カウンターに向かい、私はさっと紙幣を取り出して二人分の入館料を払う。
「あ、俺が払うつもりでいたのに」
「うん。でもお昼代払ってもらったから」
「ありがとう。ごめんね」
「どういたしまして。今日はご褒美の日でもあるからね」
笑って片目をつぶって見せる私に、理玖も悪戯めいた笑みを浮かべて見せる。
「じゃあ、この分は後日何倍にもして返すから」
「ふふっ、期待してる」
「よし。それじゃあ、行ってみようか」
「うん」
理玖の後に着いて観覧席に向かう。
初めてのプラネタリウムは圧巻だった。投映が終わってからも、感動の余韻がなかなか冷めなかった。ぼうっとした頭で座席から体を起こす。
「どうだった?楽しめた?」
「えぇ、楽しかった。というより、想像以上に素敵だった。見えないだけで、ほんとはこんなにたくさんの星があるのねぇ。また来たいって思ったわ」
理玖はほっとした顔をする。
「そう言ってもらえて良かった。ひとまずここを出ようか」
「そうね」
私は座席から立ち上がり、理玖の後に続いてオープンスペースに出る。
歩調を緩めて私の隣に並んで歩きながら、理玖は言う。
「実はね、つまらない顔されたらどうしようかと思ってたんだ」
「どうして?」
私は目を瞬いた。
「つまらないどころか、私、感動すらしたわ」
「でもほら、星とか惑星とか、こういう天文って結構マニアックでしょ」
「全然そんなことないよ。私、今まで星座がどうとかあんまり興味がなかったけど、今度夜空を見上げてみようって思ったわ。そう言えば、理玖君って天文部じゃなかった?」
「うん。覚えてた?」
「まぁね。お部屋の本棚にそういう本が並んでるしね。今度、私でも分かるような本、貸してもらおうかしら」
「もちろんいいよ」
理玖の目が輝く。
「なんならさ、今度一緒に星を見てみる?冬って寒いけど、空気が澄んでいるから綺麗に見えるんだ。家の近所だと見えにくいけど、学校近くの高台にいい感じに見える場所があってね。天文部でもそこに行って星を観察したりするよ。さっきのプラネタリウムでも説明してたけど、今の時期だとね……」
いつも以上に雄弁な理玖の話を微笑ましい思いで聞く。
私が無言なのを誤解したらしく、理玖は慌てたように話をやめた。
「なんか語りすぎちゃったね。ごめん、俺ばっかり喋って」
「全然そんなことないよ。理玖君の話、私も楽しい気持ちで聞いてたよ。ほんとに一緒に星とか眺めたりできたらいいな、って。……あ」
慌てて口を閉じた。気持ちをさらけ出してしまったわけではないが、本心の欠けらを見せてしまったようで気まずい。
「ところでこの後どうする?イルミネーションの点灯まではまだ時間があるから、いったん駅に戻ってどこかでお茶しない?」
私の動揺に理玖は気づいてはいないようだ。
「そうだね。そうしよう」
理玖は私の提案に頷いた。
私たちは施設内に掲示してあったバス時間を確認し、頃合いを見計らってすぐ目の前にあるバス停に向かう。ほぼ時間通りにやって来たバスに乗り、再び駅を目指した。
バスを降りて、さてどこでお茶をしようかとキョロキョロする。就職活動絡みで二回ほど来ている街ではあるが、土地勘がないから、マップを見たところでどの方面に行けば何があるのかが曖昧だ。スマホを取り出してめぼしいカフェを検索していると、理玖が私の袖を引いた。
「少しアーケード街の方歩いてみない?その途中でカフェを探してさ。そうしているうちに、イルミの点灯時間にもなるだろうし。どうかな?」
「そうね。そうしましょうか。地元にはないお店もあるだろうから、見てみたいわ」
「よし、じゃあ、あっちから行こう」
私たちはバスプールを離れて、様々な店が集まる通称アーケード街に足を向けた。さすが大都市圏のS市だ。人も多いが店の数も多い。来年からこの街に住み、働くことになるのだと思うと、どんな店があるのかチェックするのにも熱が入る。
途中、可愛らしい外装の店を見つけた。雑貨店かしらとつい立ち止まり、ショウウインドウに気を取られていたら、気づいた時には理玖の姿が見えなくなっていた。きっと先に行ってしまったのだ。早く追いかけなくてはと、人の波の向こうに彼の後ろ姿を探して先を急ぐ。しかしなかなか見つけられない。そうだ、電話をしようと道の端に寄ってスマホを取り出したタイミングで、着信があった。理玖からだった。
私はほっとして急いで電話に出る。
「もしもし!」
『あ、まど香さん?今どの辺りにいるの?近くにある目印教えてよ。俺、そっちに行くから』
「ありがとう。えぇと、今は『ひまわり』っていうドラッグストアの前にいるわ。近くに仕掛け時計があるの」
『分かった。そこから動かないでね』
「はい。すみません……」
私はしゅんとして電話を切った。年上の私の方がしっかりすべきなのに、と自分に呆れる。しぼんだ気持ちでドラッグストアの入り口付近まで移動して、理玖が来るはずの方角を見ながら待つ。しばらくして、理玖が大股歩きで私のいる方へ向かって近づいてくるのが見えた。ほっとすると同時に、怒られるかもしれないと身をすくめる。
「まど香さん!」
私の前で足を止めた理玖の顔周りに、ふわりと白い息がまとわりついていた。
それを見て申し訳なくなる。
「……ごめんね」
「話しかけようと思って隣を見たら姿がないんだもん。驚いたよ」
「可愛いお店が目に入ったから、それでつい立ち止まってしまって……。本当にごめんなさい」
もごもごと言い訳を口にする私に理玖は苦笑し、ため息をついた。
「まぁ、電話もあるし、子どもじゃないからね。そんなに謝らなくてもいいんだけど。でも心配した。だからね」
そう言ったかと思ったら、不意に私の手を取った。
びくっとする私を無視して、理玖は私の指に自分の指をからめる。
私は顔を熱くしながら抵抗した。
「離して」
「だめ」
「もうはぐれないように気をつけるから」
「どうかなぁ。またふらふらするんじゃないの?」
「しないってば。それに、そもそもこのつなぎ方はだめよ。恋人でもないのに……」
自分で言っておきながら、最後のセリフに傷ついたような気分になる。
「だめだよ。俺に心配かけた罰。歩く時はこうやって手を繋ぐからね」
「っ……」
心配をかけたと言われては、何も言えない。
「少し行った所に入りやすそうなカフェを見つけたんだ。座れそうだったら、そこに入ろう」
「う、うん……」
抵抗を諦めて、私は理玖の隣に並んで歩き出す。私の指にからめられていた彼の指にきゅっと力が込められて、胸が高鳴る。
カフェに着き、理玖の手がようやく離れてほっとした。
「入ろうか」
店は混んでいた。けれど、ちょうど出た客がいたとかで、席に案内される。
そこで小一時間ほど過ごしたところで、イルミネーションの点灯時間まではあと三十分ほどとなった。
「どうする?もう外に出る?ちなみにメイン会場の通りって、ここから十五分くらいの場所だよね?」
「それなら、ぶらぶら歩いているうちに時間になりそうだね」
「じゃあ、出ようか」
カフェを出て通りに戻った途端、理玖の手がするとり私の手を握った。
私が何か言うよりも早く、理玖は言う。
「初めから繋いでいれば、さすがにもうはぐれたりしないでしょ」
私を探す羽目になった小さなハプニングを思い出すと、その手を振り解けない。私は苦笑を浮かべながら、彼の手をそっと握り返す。
「じゃあ、メイン会場の方に行ってみようか」
理玖は満足そうに私を見ていた。
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