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【第2話】毒蜜
勇斗が仕事へ出かけた後の部屋は、いつだって冷ややかな静寂に包まれている。
僕は勇斗がつけた首筋の噛み傷を鏡で撫でながら、ぼんやりと天井を見上げていた。痛みが引いていくのが寂しくて、爪の先で傷口を強くなぞる。血の味が口の中に広がるような錯覚覚えるほど、僕は勇斗の残像に囚われていた。
その時、静寂を切り裂くようにインターホンが鳴った。
心臓が跳ね上がる。勇斗が鍵を忘れたわけじゃない。彼なら乱暴にドアノブをガチャガチャと鳴らすはずだ。
恐る恐るインターホンのモニターを覗き込み、僕は息を飲んだ。
画面に映っていたのは、少し大人びた、けれど見間違えるはずもない顔。
「……じゅう……?」
柔太朗。かつて僕と『ニコイチ』と呼ばれ、何をするにも一緒だった唯一無二の親友。
だが、数年前に突然現れた勇斗に僕が溺れ、外部との連絡を一切絶ってから、彼とは一度も会っていなかったはずだった。
居留守を使おうとしたけれど、扉の向こうから必死な声が響いた。
「仁人! いるんだろ!? 頼むから開けてくれ……! お前の身内の連絡先を辿って、なんとかここを突き止めたんだ!」
断りきれず、鎖(チェーン)をかけたまま少しだけドアを開ける。隙間から覗く柔太朗の顔は、焦燥と不安で歪んでいた。
「じゅう……どうして……。僕、今は誰も会えないよ。勇斗に怒られちゃうから――」
「勇斗? あの男か!? 仁人、お前……その顔、その首元……っ!」
ドアの隙間から見えた僕のやつれた顔、そして隠しきれていない痛々しい青痣と勇斗の噛み痕を見て、じゅうの目が大きく見開かれた。
「嘘だろ……酷い目にあってるって噂は本当だったのか……!? なんでそんな奴と一緒にいるんだよ!」
「違うの! これは僕がドジだからで、勇斗は悪くないんだ! 勇斗は僕のことが必要だから……っ」
「目をませよ仁人!!」
じゅうは強引にドアの隙間に手を突っ込み、チェーンを力任せにはずして室内へと踏み込んできた。
「あいつはお前を愛してなんかいない! ただ痛めつけて満足してるだけだ!」
「やめて! 入ってこないで! 勇斗にバレたら僕、殺されちゃう……!」
パニックになる僕の両肩を、じゅうは強く掴んだ。その瞳には、僕への心配だけじゃない、ドロドロとした熱い感情が渦巻いている。
「あんな男のどこがいいんだよ……! 昔は俺が一番近くにいたろ!? 俺たち、二人でいれば何だって分け合えたじゃないか! なのに急に現れたあいつに全部奪われて……!」
柔太朗の声が震えている。嫉妬。執着。怒り。
かつて僕に向けられていたはずの強い愛情が、醜く歪んで溢れ出していた。
「じゅう、やめっ――」
「忘れさせてやる。あんな男の痕なんて、俺が消してやるよ……!」
「嫌だ、離して!」
暴れる僕の体を、柔太朗は圧倒的な力で床に押し伏せた。
#そのじん
笑う門には福来る
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柔太朗の顔が急接近し、嫌がる僕の首元――勇斗がつけた噛み痕のすぐ隣に、激しく唇を押し当ててくる。
「んっ……やめて……! 勇斗以外の痕なんて、いらない……!」
執拗に、皮膚が鬱血するほど強く吸い上げられる。
柔太朗は「助けたい」という正義感の裏で、僕を自分のものにしたいという己のエゴを爆発させていた。僕の首筋に、はっきりと残る新たな、そして鮮烈な赤紫色のキスマーク。
「……これでいい。これであいつもお前に執着するのをやめるはずだ。『お前は他の男のものになった』って思わせれば……っ」
じゅうは肩で息をしながら立ち上がり、僕を見下ろした。その顔は、罪悪感と狂気で引き攣っている。
「また来るから。次こそ、お前をあの男から連れ出す」
柔太朗は逃げるように部屋を飛び出していった。
残されたのは、激しく乱れた服と、首筋に刻まれたふたつの痕。
ひとつは勇斗の荒々しい噛み痕。そしてもうひとつは、親友だったはずの柔太朗が残した、歪んだ嫉妬の証。
「どうしよう……どうしよう、勇斗……」
僕の首筋で、じゅうのつけたキスマークが、まるで呪いのように熱を持っていた。
そして――最悪なことに、カチャリと玄関の鍵が回る音がした。
予定より遥かに早い、勇斗の帰宅だった。
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