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「透き通ったままの愛」
🟦🏺
「アオセンって恋愛上手みたいな顔してそうでもないんだな」
本署の休憩所でくつろぎながら、つぼ浦がそんなことを言い出した。
「は?なに急に」
鬼の面を膝に抱えた青井は、ソファーに座ったままつぼ浦を見上げた。つぼ浦は妙に得意げな顔で青井を見下ろしている。
「だって俺から言わないとアオセンはキスの一つもできないんだろ?」
「ああ……そうだね」
青井は思わず苦笑した。
思いが通じて二人が付き合い始めたのは、もう一ヶ月以上前のことになる。青井はその最初の頃のことをゆっくりと思い出した。
*
その日、薔薇のように真っ赤な顔で、手指を震わせたつぼ浦が「アオセン、キスをするぞ!」と言い出した。
本署の屋上、事件も落ち着く夕方のチルタイム。傾き始めた夕日も相まって、つぼ浦はつま先まで赤かった。
「急にどうしたの?!」
青井は鬼の面を外して素顔でつぼ浦を見た。現れた端正な顔を見てつぼ浦の心拍数が跳ね上がる。
「つ、付き合ってんだろ?俺ら」
「そうだね、受け入れてくれてありがとうね」
「だったらキ、キ、キス!キスしないといけないんだぜ!!」
つぼ浦がどもりながらそんなことを言い出した。青井は今にも沸騰して倒れそうな様相のつぼ浦を怪訝そうに見た。この恋愛初心者の男はまた何を言い出したのだろうか。
恋愛とはどういうものなのか。付き合うとはどういうことなのか。初心者のつぼ浦が考えた結果、たどり着いた答えは「キスをすること」だった。映画でも漫画でも、付き合った同士はキスをしている。だから自分たちも付き合ったからにはキスをしなければならないのだ、それこそが証なのだと。
そんなつぼ浦とは逆に、青井は思いが通じ合い、側にいられるだけで十分だった。目が合えば微笑むだけのやり取りでも胸はじんわり熱くなる。今もこうして二人で一緒にいるだけのことが何よりも愛しく尊い。年寄りめいた感想だが、あまりにも好きすぎてそばにいるだけで満たされてしまうのだ。
「だって、アオセン……本当に俺のこと好きなのか?」
予想だにしない言葉で青井は胸を刺された気持ちだった。
「好きだよ、四六時中考えて、顔を見るだけで一日幸せになれるくらい」
嫌いだなんて気持ちは一つもない。今すぐ胸を裂いて赤く脈打つ心のすべてを見せたいくらい、青井はつぼ浦を愛していた。それにも関わらずつぼ浦の顔色は悪い。
「でも俺なんてアオセンの横にいることしかできねぇ、なんもできてねぇだろ?」
「そんなことないって、いてくれるだけで嬉しいんだよ?」
「だけど……チクショウ、わかんねぇんだよ、アオセンの気持ちが」
唇を震わせるつぼ浦の表情で、青井は自分の不手際を悟った。
不安なのだ、つぼ浦は。いくら青井が心を寄せたとしても、目に見えない気持ちだけでは心配なのだ。
具体的な行動に移さなかったのは甘えであり弱さだった。つぼ浦はそういう行為を好まないだろう、形のないものだけで満足できるだろうという思い込み、それは不協和音の前触れだ。
「わかったわかった、ごめんね、心配させちゃって」
青井はつぼ浦の頬に手を添えた。夕日を受け、余計に熱い体温が指先から伝わってくる。
「いいよ、キスしよっか」
承諾の言葉で不安に塗りつぶされていたつぼ浦の顔がぱっと輝いた。
「いいんだな?」
「うん、今まで不安にさせてごめんね」
「ま、毎日するんだぞ。一日一回、絶対だぞ!」
「わかったよ。もし俺のこと嫌いになったらしなくていいし、俺も嫌だっていうからね」
そんな日は来ないけどね、と青井は腹の中でつぶやく。「嫌い」という言葉にだけ反応してつぼ浦の肩が跳ねたが、すぐに正しく言葉を理解して何度も頷いた。
「いいぜ、負けねぇからな!」
「はは、何にだよ」
笑いながら青井はつぼ浦の首に手を回し、引き寄せた。キスという未知の行為に本当に直面し、つぼ浦は唾を飲んだ。それから勇気を振り絞るように青井の背中に手を回した。
「じゃあキス、する……ぞ!!」
言い出したからには自分から動きたいらしい。大型犬のような体躯の男が、小型犬のような目をして震えている。その愛らしい姿を眺めていたかったが、青井は顔が近づく前にわざと目を閉じた。
青い目がまぶたの向こうに隠れたのを見てつぼ浦は逃げ場がないことを悟った。何度も大きく深呼吸して意を決して顔を近づけた。人生で一番長い一瞬だった。
こつん、先に額がぶつかって、それから柔らかい感触が唇に触れた。つぼ浦は思わず叫びだしそうになって息を飲んだ。ここで逃げたら意味がない。そのままぎゅっと唇を押し当て続けた。
いつまで続けたらいいのかわからなくなったあたりで呼吸が苦しくなって、つぼ浦は身体を離して荒く息を吐いた。海から打ち上げられたかのように苦しく、世界が回る。
「ふふ、なに、泣いてんの?」
「っ、へ?」
青井に指摘されてつぼ浦はサングラスの下に指を入れ、目を拭った。しっとりと濡れた感触がした。本当に溺れたあとのようだ。実際いま自分は青井に溺れたのだろう。呼吸が整わないままつぼ浦は思った。
ファーストキスの味は緊張と興奮が脳から追いやった。ただ温かさが、青井の気持ちを直接流し込まれたかのような温かさだけが胸に残った。
ほんの少しの時間の触れ合いだけで、つぼ浦は信じられないくらい満たされていた。ぼんやりとした頭で見る世界は生まれ変わったかのようで、沈みゆく夕日さえ祝福してくれているようだった。
「じゃあ明日もしようね」
新しい世界をぼーっと眺めていたつぼ浦の耳にとんでもないセリフが飛び込んできた。
「あ、明日……も?!」
「だってお前が言ったじゃん。え、もう嫌になった?」
つぼ浦は恋人同士が愛を確かめ合う手段をそれしか知らない。それがこんなにも疲れる行為だとは思っていなかった。しかし首を縦に振るしかない。
「い、嫌なわけねぇだろ!アオセンこそ逃げんなよ?!」
「へへ、楽しみにしてるよ」
青井は悪そうに笑った。
たった一度のキスで、客船強盗で岸から船まで素潜り往復するよりも遥かに疲弊した。しかしそれ以上に強い温もりが胸を満たしている。
前に広がる世界は間違いなく愛しく、楽しい。つぼ浦は青井の背中に回した手をなかなか離すことができなかった。
*
「そうだねー、つぼ浦がやってくれないとキスできなかったかもなぁ」
そんな昔のことを思い出しながら青井はうそぶいてみせた。つぼ浦は更に得意げに鼻を鳴らしている。
「アオセンって日本にいた頃はいたのか?その……カノジョとか」
「ん?まぁいたことあるね」
「それでもキスできないのかよ?ならなおさら恋愛に関しては俺のほうが上だな」
「はは、そうだね」
勝っているはずなのにあまり勝った感触がないことをつぼ浦は少しだけ訝しんだ。しかし恋人同士はキスをするもので、それは何にもまさる愛の確認で、それができた自分は青井よりも恋愛がうまい。そう信じてドヤ顔をしているつぼ浦のことを、青井は愛おしそうに見つめた。
青井はもっと知っている。恋愛の激しく薄汚い部分を知っている。しかしこの一件に関しては、つぼ浦に言われなければ青井からキスすることはなかっただろう。恋愛がカードバトルなら青井はたくさんの切り札を持て余すばかりで、つぼ浦は初心者ゆえにいきなりエースを切ってきた。確かにつぼ浦のほうが上手だったかもな、と青井は思った。
「じゃあ今日の分、できる?」
「ここでかよ?……まぁいいぜ」
つぼ浦は恥ずかしげもなくソファーに座る青井の上に乗り、そっと唇を重ねた。もう歯も当たらないし、額がぶつかることもない。触れ合う唇の温かさをじんわりと受け取り、そして与える時間がゆっくりと流れる。
「今日も大好きだよ、つぼ浦」
「……俺もだぜ」
触れ合う温度は間違いなく愛だった。階段を誰かが登ってくる音がするまで、二人は抱き合う手を離さなかった。
もしつぼ浦がどこかから情報を仕入れてきて、この先に進みたいと言い出すまで、青井はこの愛を透き通ったままにしておこうと思った。
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