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紙一枚から
「お子さんから結ばれた約束、守りましたか?」紙一枚から
その一文は、白い紙の中央に、黒々と印刷されていた。
装飾も、強調もない。問いかけというより、事務的な確認事項のようだった。
私は一瞬、どこに丸をつければいいのか分からず、ペン先を止めた。
氏名、生年月日、続柄。
その下に並ぶチェック項目の流れから、少しだけ浮いている。
——お子さんから結ばれた約束。
子どもから、だったか。
そう思った瞬間、胸の奥で、乾いた音がした。
後ろの椅子がきしむ。
待合室では、誰かが咳払いをし、子どもの靴底が床をこする音がした。
どれも、今この場にふさわしい音だったのに、私だけが一拍遅れている気がした。
約束、という言葉が、頭の中で形を持たずに漂う。
旅行の話だったか。
習い事だったか。
それとも、もっとどうでもいい、
「今度ね」と笑って流しただけの何か。
守ったか、と聞かれている。
破ったか、ではない。
忘れたか、でもない。
私は、設問の意図を測ろうとして、やめた。
ここには理由を書く欄も、言い訳を書く余白もない。
あるのは、
「はい」と「いいえ」の、二つの小さな四角だけだった。
ペンを握る指に、わずかに力が入る。
どちらかに印をつければ、
その瞬間に、何かが確定してしまう気がして。
「次の方どうぞ」
名前を呼ばれて、私は顔を上げる。
用紙はまだ、無傷のまま膝の上にあった。
問いは、消えない。
静かに、そこに置かれたまま、
私が思い出すのを待っている。
プレイバック
ペン先を紙から離したまま、私は視線を落とした。
白い余白が、妙にまぶしい。
——今度、迎えに行くから。
その言葉が、唐突に浮かんだ。
音ではなく、口の形だけが先に出てくる。
少し急いでいて、時計を気にしながら、玄関先で言った。
雨だった。
確か、小雨で、傘を差すほどでもなくて、
子どもは長靴を履いていた。
「ほんと?」
そう聞かれて、私は一度だけ頷いた。
念を押されるのが面倒で、
大丈夫、という意味を込めた、軽い動きだった。
迎えに行く距離でもなかった。
歩けば十分。
だから、約束だと思っていなかった。
その日は結局、仕事が長引いた。
一本、電話を入れようとして、
やめた。
大したことじゃない、と思ったからだ。
門の前に、子どもはいなかった。
帰っているはずだと、疑わなかった。
家に着くと、玄関に靴が揃っていて、
濡れた長靴だけが、少し離れて置かれていた。
「もう帰ってたの?」
そう言った私を、子どもは見なかった。
テレビの音が、必要以上に大きかった。
迎えに行くと言ったことを、
私は、その夜は思い出さなかった。
次の日も、
その次の日も。
思い出したのは、ずっと後だ。
迎えに行く、という言葉が、
約束だったかもしれない、と
誰にも言われずに、気づいたとき。
——お子さんから結ばれた約束。
問いが、現在に戻ってくる。
私は、膝の上の用紙を見る。
「はい」と「いいえ」の四角は、
あの雨の日よりも、少しだけ近くにある。