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第七章 千早の部屋、静かな風
千早の家の前に立つのは、五年ぶりだった。
玄関のチャイムを押す指が震える。
押さなければ、このまま何も変わらない。
でも押してしまえば、千早との「最後の場所」が本当に“過去”になる気がした。
——ピンポーン。
澄んだ電子音が、夏の夕方に吸い込まれていく。
しばらくして、静かにドアが開いた。
「……あかりちゃん?」
千早の母親は驚いたように目を見開いた。
でもすぐに、寂しさと優しさが混ざったような表情になった。
「ごめんなさい、急に……その、どうしても千早の部屋を見たくて……」
言葉が詰まる。
でも彼女は、黙って頷いてくれた。
「どうぞ。あの子の部屋、あの頃のまま、何も変えてないの」
通された部屋は、本当に時間が止まったままだった。
カーテンの柄、壁に貼られたポスター、棚に並んだ文庫本。
どれもあかりの記憶の中と変わらない。
床に座り込んで、ゆっくりと空気を吸い込む。
あのころと同じ香りがした。少し甘くて、やさしい匂い。
机の引き出しをそっと開ける。
ペンやシール、落書きした紙の奥に、小さなノートがあった。
それは、見覚えのあるカバーだった。
千早が日記をつけていたことは知っていたけれど、触れたことはなかった。
開いてもいいのか、迷った。
でもあかりの指は自然とページをめくっていた。
日記には、千早のいつもの字で、日々のことが綴られていた。
好きな人のこと。授業中に見つけた変な落書き。あかりと遊んだ日のこと。
そして、ある日のページで、ふと手が止まる。
『もしあかりが先に死んじゃったら、って思うと、胸がギュッてなる。
逆に、私が先だったらあかりはどうするのかな。泣くだろうな、いっぱい。
でも、お願い。私がいなくなっても、絶対に自分を責めないで。
だって、あかりがいたから私はすごく幸せだったんだから。
この“死ぬまでにやることリスト”、あかりが全部叶えてくれたら、きっと私は空の上でバカみたいに笑ってるよ』
指が止まったまま、ページを見つめ続ける。
胸の奥から、何かが崩れ落ちていく。
ずっと自分を責めてきた。生きることを罰だと思っていた。
でも——千早は、そんなふうに思っていなかった。
「……千早」
あかりは声を震わせながら、名前を呼んだ。
涙がこぼれる。でも、もう苦しみだけじゃなかった。
千早は、自分を責めてほしくなかった。
千早は、今もどこかで、笑っていてくれる気がした。
日記を胸に抱き、ゆっくりと目を閉じる。
静かな風が、部屋のカーテンを揺らす。
その風が、どこか遠くから千早の声を運んできた気がした。
——ありがとう。
そんな気がした。
あかりは、少しだけ笑った。