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#シリアス
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紫香楽
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鷲津の毒牙から救い出されてから数日
煌様は、軍務の合間を縫って、私の壊れかけの心が癒えるのを静かに支えてくれていた。
ようやく熱が下がり、鉛のように重かった体が羽のように軽くなったと感じられた朝。
私は、心配して引き止める女将さんを何度も説得して、久しぶりに慣れ親しんだ厨房の土を踏んだ。
使い込まれた包丁の確かな重み、釜から立ち上る炊きたての白米の甘い湯気、出汁の芳醇な香り。
当たり前すぎて気づかなかった日常の光景が
今は涙が零れ落ちるほど愛おしく、尊いものに感じられた。
「……雪、言ったはずだ。あまり無理をするなと」
背後から響いたのは
あの日、地獄の底から私を強引に引きずり上げてくれた、低く、けれどどこまでも慈愛に満ちた声だった。
振り返ると、そこにはいつものように凛々しく軍服を正した煌様が立っていた。
けれど、以前のような「高貴な客」としての冷ややかな距離感はもうどこにもない。
私を見つめるその瞳には、隠しきれない強い光が宿っていた。
「煌様……。ご心配をおかけしてすみません。でも、もう大丈夫です!こうして包丁を握り、誰かのために料理を作っている方が、かえって私の心は凪のように落ち着きますから」
「君はいつもそうだ。自分のことよりも他者のことばかり…」
煌様は困ったように眉を八の字に下げて溜息をつくと、私の手から湿った布巾をそっと取り上げた。
あの方の大きな指先がわずかに触れるだけで、火照るような熱が指先から心臓へと駆け巡る。
あの方は以前よりもずっと、私を壊れやすい薄氷のように
この世に二つとない宝物のように、愛おしげに見つめるようになっていた。
◆◇◆◇
その日の夕暮れ時
鳳凰館の仕事に一段落つけた私を、煌様は料亭の静かな裏庭へと呼び出した。
まだ夜風は肌を刺すように冷たいけれど、庭の隅に佇む梅の木には
春の訪れをじっと待つ蕾が、硬く、けれど生命力に満ちて力強く膨らんでいる。
「雪。……あの日、私は君をあえて遠ざけた。君の過去をこれ以上汚さないよう守るためだ、と自分に言い訳をしながら、実際はただ、君を深く傷つけたのだ。その傲慢な報いが、あの悪夢のような出来事を引き起こしてしまった」
煌様は、銀色の月明かりに照らされた梅の枝を見上げながら
自分自身に言い聞かせるように、一言一言を噛み締めて言葉を紡いだ。
その横顔には、戦場を駆ける冷徹な軍人の面影はなく、ただ一人の女性を想い
後悔に震える男としての懊悩が色濃く刻まれていた。
「君を遠ざけ、心に鍵をかければ、この胸の騒ぎはいつか収まると思っていた。身分の違う君への想いを断ち切ることこそが、君の、そして私の平穏に繋がるのだと……そう信じようとしていたんだ」
「だが、君を失いかけたあの地獄のような時間、君が隣にいない日々の耐え難い空白は、私にとって死ぬよりも辛く、恐ろしいものだった」
煌様の視線が、天から降りてきて、ゆっくりと私の瞳を射抜いた。
その眼差しは、私のすべてを包み込み、魂の奥まで見透かすような深い熱を帯びている。
「……自分の愚かさに、ようやく気づかされた。私はもう、君のいない世界で息をすることなどできないんだ、雪」
煌様の切実な告白は、冬の寒さに凍えきっていた私の心に
柔らかな春の陽だまりを惜しみなく注ぎ込むようだった。
しかし
煌様の「身分の違う君への想いを断ち切る」という言葉が引っかかり
その刹那、私の思考は鋭い矢に貫かれたかのように停止した。
(身分……?)
心臓が奇妙な鼓動を打ちはじめた。
彼の言葉の意味が、遅れて頭の中で形になっていく。
煌様が私を…遠ざけようとした理由?
それが……そんな身分という壁を越えた感情だった。
顔を上げたとき、私は目の前にいる人が誰なのか分からなくなった。
いつも通りの軍装姿なのに。
私の包丁捌きを見つめる優しい瞳が、あの時よりももっと熱を帯びて揺れているように見える。
(まさか……煌様が? あの完璧な煌様が……私を?)
脳裏を駆け巡るのは、今まで彼が示してきた一つ一つの行動だった。
初めて鳳凰館に足を運んだ日。
「美味しい」とほほ笑んでくれた時のあの温もり。
危険を顧みず助けに来てくれた時の鬼神の如き姿。
そして今、月明かりの下でこんなにも切なく語りかけてくる低い声。
(嘘……だって…そんな素振り…)
頭の中が真っ白になった。
今まで手の届かない想い人としか思っていなかった相手からの予想外すぎる告白に戸惑いが波のように押し寄せる。
私の胸の内で眠っていた何かが、突然目を覚ましたような不思議な感覚。
それは喜びではなく、圧倒的な驚きと戸惑いだった。
「雪?」
煌様が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「あ……あの…今のお言葉……『身分の違う君への想いを断ち切ること』とは…一体どういう……」
声が震えた。喉の奥がカラカラに乾いているのに気が付く。私の反応を見た煌様は一瞬だけ寂しげな表情を見せたあと、再び力強く頷いた。
「そのままの意味だ。君が思っている以上に私は君に惹かれている。この国の未来を考えれば簡単ではないこともわかっている。それでも……私はもう自分をごまかせない」
その言葉と共に差し伸べられる大きな掌。
いつも厨房で食材を扱うために冷たくなっていた自分の手が急に火照っていくような錯覚を覚える。
「わ……私なんかが……煌様に…?」
声が掠れた。頭がぼんやりしていて何も考えられない。
「君『なんか』じゃない。雪だからだ」
「で、でも、煌様にはお見合いの話が出てたのでは……?」
「なぜそれを……」
「う、噂で聞きまして…ですから、好きになっちゃダメだとは思ってました」
「確かに綺麗な令嬢からの誘いはあったが……何度も断った」
「えっ」
「私は、君の料理を食べたときから君に惚れてしまったんだ。君のことになると焦ってしまったり、つい恋人繋ぎをしてしまったこともあっただろう」
「あ、あれって…女性と恋人繋ぎするのが慣れているのかと思ったんですが…」
「…君には、そんなに俺が軽薄な男に見えたのか」
「ち、違いますけど!」
「なら、あのとき様子が変だったのは?」
「え?そ、それは……煌様なら、女性のエスコートも普通にしてしまうんだって…そういう人がいるのかもって勝手に想像して、悲しくなってしまっただけで…」
「…いいか、俺は君のことしか考えられないほどに、君に惚れてるんだ。他の女性なんて有り得ない」
煌様はまっすぐに私の瞳を見つめながらそう断言する。
その眼差しは一切迷いもなく澄みきっていて。
まさに軍師が戦場で次なる一手を宣言するときと同じくらい確固たるものだった。
「これは、正式な君への告白だ。だが……もし怖ければ言ってくれ。立場を気にせず、嫌なら嫌だと断って────」
「そんなわけないです……!」
声はか細く震えていたけれど、全身で否定していた。
私の手は無意識に煌様の差し出した掌へ伸びていた。
「私……私もずっと……」
喉が詰まった。これまで抑え込んできた想いがあふれ出て止められなくなる。
「煌様が私のお料理を美味しそうに食べて……『美味しい』ってほほ笑んでくださったときから……ずっと、今の今まで好きだったんです…」
言い終わるかどうかのうちに、溢れ出した感情が両目からこぼれ落ちる。
慌てて顔を背けようとする私の肩を、輝様の大きな手が優しく、しかし力強く引き寄せた。
「雪…っ」
彼の腕の中にすっぽりと収まってはじめて気付く。
煌様の鼓動もまた私と同じ速さで跳ね上がっていること。
そして何より彼の温もりがとても心地いいということを。