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くるみと、御庄にあるくるみの家で暮らすようになって早三ヶ月。
二人での暮らしにも大分慣れてきた実篤とくるみだ。
基本くるみの朝はとても早い。
三時には起きて、厨房でパン作りに精を出している感じ。
『くるみの木』のパンは手こねなので機械でこねるパン屋よりも手間がかかる。
生地自体は前の日にこねて寝かせているし、中に入れるカスタードクリームや総菜パンの具材などもあらかじめ前日の昼間に作ってある。
だが成形と焼き上げは基本起きてからになるから、一人で作業しているくるみが一日に作れるのは二百個がギリギリライン。
ちなみに『くるみの木』で売られているパンは、殆どがそのまま食べても大丈夫なパンばかりだ。
十時から十二時を目処にあちこち動き回る移動販売のお店で、パンを買ってくれたお客さんらがそのままその日の昼食にすることが多いからなのだが、そんな中にあって、一日五斤しか焼けない小さめの食パンはそれなりに人気がある商品だ。
とは言えそれらはほぼ予約品で、ある意味受注生産みたいになっている。
こういう基本的なライフスタイルは一緒に暮らすようになったからと言って変わらない――いや、変えられない――から、必然的に実篤もくるみと一緒に夜は早めに休む習慣がついた。
さすがにくるみと一緒に三時から起きるようなことはないけれど、五時には目覚めて掃除や洗濯など、自分が出来ることはくるみに代わって済ませるようにしている。
一緒に暮らすようになったら毎晩のように営めるかと思っていた夫婦生活も、くるみの睡眠時間を考えるとそうも言っていられなくて……実篤はグッと我慢してそれこそ休みの前日や、休日にはたっぷりじっくり抱かせてもらうことで何とか折り合いを付けている。
***
「朝食は卵と高菜のサンドイッチで大丈夫ですか?」
実篤が一緒に住むようになってから、くるみは自宅用に一斤余分に食パンを焼いてくれるようになった。
今朝はそれを使ってサンドイッチを作ってくれるらしい。
九月に入って一週間ばかりが過ぎ、実篤も転勤時期の繁忙期に入っている。
今まで住んでいた由宇町より御庄からの方が、通勤にかかる時間が三分の一に抑えられて、ほんのちょっぴり気持ちにゆとりが出来ている実篤だ。
とはいえ、今日は朝からあいにくの雨模様。
岩国市はどうやら今日の夕方から夜にかけて、大型の台風十五号の通り道になるらしい。
十五時辺りから暴風域に入るとの予報で、きっと大雨に見舞われている今朝は、道路もいつもより混雑しているだろう。
こんな日は寄り道などせずまっすぐ会社へ向かいたい。
そう思っていたら、「お弁当も作っちょきましたけぇ良かったら持って行ってください。おかず、殆どがお総菜パンの残りの具材なんじゃけど……卵焼きはちゃんと朝焼きましたけぇ」とくるみがお弁当箱をテーブルの上に載せてくれる。
コンビニなどへ寄り道したり、昼食を食べに出掛けなくていいのはすごく助かる。
そう、物凄く助かるのだけれど――。
「くるみちゃん、無理しちょらん?」
どうあっても実篤と暮らすようになってからのくるみは、負担が増しているように思えて仕方がないのだ。
「え? ……うち、無理なんかひとつもしちょらんですよ?」
くるみがキョトンとして実篤の顔を見詰上げてくるから、実篤はそんなくるみの目を探るようにじっと見つめ返した。
「――ホンマに?」
「はい、ホンマに」
くるみは不安そうに眉根を寄せる実篤にクスッと笑うと、実篤の方へ近付いてきて心配性の旦那様の頭をよしよしした。
「うちね、元々お料理するん、大好きなんです。好きじゃないとパン屋なんてやろうとは思わんですし……。お客さん達が喜んでくれるんを思い浮かべながら作業するんも本当に楽しいんです。だけどね、それにも増して――」
そこで実篤の頬を両手でギュッと挟み込むと、くるみが不安そうに瞳を揺らせる実篤の顔を真正面からじっと見上げてくる。
くるみの色素の薄い琥珀色の瞳に、自分の顔が映っているのが見えて。それに気づいた実篤の心臓が、大好きなくるみとの至近距離に照れてドクンッと跳ねた。
「家で実篤さんのために作る料理はそれとはまた全然違ーて……。何て言うたらええんでしょう。――ああ、うち、また家族が出来たんじゃなぁって実感できて……ホンマに幸せなんです」
そこで実篤の顔を引き寄せて背伸びをすると、彼のおでこにチュッとキスを落として、くるみがもう一度ニコッと微笑んだ。
柔らかなくるみの唇の感触に、実篤の全身にぶわりと熱い血が駆け巡る。
今の自分は耳まで真っ赤になっているだろうなと分かるくらい全身が熱い。
「だからね、うちが無理しちょるなんて思うちょるんじゃったら……全然見当違いですけぇ。むしろ――」
そこで実篤にとどめを刺すみたいにぎゅぅっとしがみ付くと、くるみがぽそりとつぶやいた。
「お洗濯をしてもろぉーたり、家ん中を綺麗にお掃除してもろぉーたり……。うちが今まで一人でやりよったこと、実篤さんがアレコレ肩代わりしてくれるけん、一人で暮らしよった頃よりめっちゃ楽さしてもろうちょるって感じちょります」
そのおかげで空いた時間が出来て、自分たちのために余分に一斤食パンを焼くことが出来るようになったし、何なら今日みたいに実篤と自分のお弁当を用意するゆとりも出来た。
「いつもうちのことを気遣ってくれて、有難う。実篤さんのお嫁さんになれて、うちは本当に幸せ者です」
すぐ間近。
自分に抱き付いた状態で見上げてくる凶悪に愛らしい妻の言葉を聞いて、実篤は心の中にわだかまっていた後ろめたさのようなものがスーッと消えていく気がした。
「くるみちゃん、俺、少しはくるみちゃんの役に立てちょる? キミの負担を減らせちょるって自惚れてもええ?」
「少しどころか凄く! 助けられちょりますし、負担減らしまくってもろうちょります! ふんぞり返るくらい自惚れまくってください」
ゴミの日に、外のゴミ箱へ溜まった臭いゴミを袋ごと取り出して、綺麗に束ねてからゴミ箱へ新しいゴミ袋を掛け替えてくれるのも実篤だし、それで出来上がったゴミ入りの重い袋を家から少し離れたごみ収集場所まで運んでくれているのだって実篤なのだ。
実篤は気付いていないけれど、くるみの言う通り。
各々が、各自今まで一人でやっていたことを二人で分担し合う生活は、負担を軽くすることはあっても増やすことなんてあり得ない。