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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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紙の面に、細い溝が走っている。
光を真横から当てると、溝の縁だけが影になって、字の骨組みのようなものが浮かび上がる。けれど、目で追おうとすると、すぐに白い紙の中へ溶けてしまう。
これでは、読めない。
私は、文机の引き出しを開けた。
父の店では、彫り込みの浅い木版の見本を取るとき、薄い紙を当てて、鉛筆で擦った。版の凸のところだけが黒く出て、彫ったところは白く残る。
溝も、同じだ。
削っていない鉛筆を一本、選んだ。芯の柔らかい、太いもの。小刀で芯の先を長く出し、斜めに平たく削ぐ。
指の腹に、黒い粉がついた。中指の、インクの染みの上に。
便箋を、文机の上にまっすぐに置いた。
鉛筆を、ほとんど寝かせるようにして持つ。力は入れない。芯の腹を、紙の上で滑らせるだけ。
右上の隅から、そっと擦りはじめた。
さり、さり、と小さな音がした。
灰色の霞が、白い紙の上に、少しずつ広がっていく。
その霞の中に、白い線が一本、また一本と、抜けて残った。
溝だけが、白く浮かぶ。
小夜子様の鉛筆が、あの晩、紙の上に押しつけた力の跡が。
*
全部を擦り終えるまでに、四半刻ほどかかった。
読めないところのほうが多かった。破られた紙の上の方に書かれた字は、筆圧が弱かったのか、ほとんど溝が残っていない。
けれど、途中から、急に線が深くなっていた。
鉛筆を握る手に、力がこもったのだ。
私は、ルーペを目に当てた。
白く抜けた線を、一本ずつ拾う。活字棚から字を拾うときと同じように。
「……の文箱に 父上様の御名 いくつも いくつも」
指先が、冷たくなった。
文箱の上に、もう何文字か、続いていたはずだった。誰の文箱なのか。どこの部屋の文箱なのか。けれど、そこは破られた紙の上の方で、いくら目を凝らしても、霞の中に白い線は一本も抜けてこなかった。
その左の行は、半分しか読めなかった。
「……旦那様に……」
その先は、霞の中に消えていた。申し上げるのか、申し上げられないのか。それとも、まるで別の言葉が続くのか。
そして、紙のいちばん下に、ひときわ深く刻まれた五文字があった。
芯が紙を破りそうなほど強く押しつけられて、擦った鉛筆の粉も、そこだけは溝に入りこめずに白く残っていた。
「葡萄酒 苦し」
少し甘く、少し酸ゆし。
十日前に、そう書いた人の字だった。
*
私は、内側の扉の前に立った。
侯爵様の寝室とのあいだの扉。鍵は、向こう側からしか開かない。
手を上げて、下ろした。もう一度上げて、二度、叩いた。
返事はなかった。
もう休んでいるのだ。そう思って背を向けかけたとき、扉の向こうで、かちりと鍵が回った。
侯爵様は、白いシャツの襟元を緩めて立っていた。寝間着ではない。机に向かっていたのか、指先に万年筆のインクがついている。
「どうした」
「お見せしたいものがあります」
侯爵様は、私の手の中の藤色の帳面を見た。
それから、黙って脇へ退いた。
侯爵様の寝室に足を踏み入れるのは、初めてだった。
飾り気のない部屋だった。真鍮の寝台と、洋書ばかりが詰まった本棚。壁には、絵の一枚も掛かっていない。写真立ても、なかった。
二人の妻を亡くした人の部屋に、二人の顔はどこにもない。
窓際の机の上に、書類が広げたままになっている。侯爵様は、それを手早く脇へ寄せ、電灯の下に場所を空けた。
私は、帳面を開いて置いた。
十二月三日の便箋を、上にして。
侯爵様は、立ったまま読みはじめた。
最初の一行で、手袋を外した指が、机の縁を掴んだ。
宇佐美先生のお見立てにて、やや子の宿れること、たしかなりと知る。
旦那様には、お正月に、父上様の御写真の前にて申し上げむと思ふ。
藤波の、下にやどれる、小さき芽の。
侯爵様は、動かなかった。
電灯の笠の下で、灰色がかった黒い目が、同じ行の上に止まったままだった。
「……子が」
ようやく、声が漏れた。
「子が……いたのか」
答えられなかった。答える必要も、なかった。
侯爵様は、片手を上げて、自分の顔を覆った。
大きな手のひらが、目も、口も、全部隠した。肩が、一度だけ大きく上下した。
声は、出さなかった。
社交界で、笑わない侯爵、と呼ばれる人だった。妻殺し、と囁かれても、眉一つ動かさない人だった。
その人が、私の前で、顔を上げられずにいる。
私は、そっと手を伸ばした。
白いシャツの背中に、手のひらを置いた。
布越しに、背骨の固さと、体の熱が伝わってきた。侯爵様は、その手を払わなかった。
しばらく、そのままでいた。
窓の外で、虫が鳴いていた。
十二月に三月なら、生まれるのは、大正九年の夏だったはずだ。
生きていれば、この夏で、二つになっていた。
この洋館の廊下を、よちよちと歩いていたかもしれない。藤棚の下で、百合絵様に抱き上げられていたかもしれない。
私は、侯爵様の背中に置いた手を、動かさなかった。動かしたら、この人が何かを堪えているのを、私が知っていると知らせてしまう気がした。
やがて、侯爵様の手が、後ろへ回された。
背中の上の私の手を、探り当てる。手袋を外した指が、私の指を、ほんの一瞬だけ握った。
「……冷えている」
「夜中に、ずっと紙を擦っていましたから」
「そうか」
握った手は、すぐに離れた。けれど、指先には、さっきまでなかった熱が残っていた。
*
「すまない」
侯爵様は、顔を覆っていた手を下ろした。目元は乾いていた。けれど、声が少し掠れていた。
「……いつ、知った」
「藤堂様の夜会の晩に、麗子様から。一人目の奥様は身籠っていた、と」
侯爵様の眉が、かすかに寄った。
「なぜ、すぐに言わなかった」
「確かめてからでなければ、と思いました。噂だけで、旦那様にお伝えしていいことでは、ないと」
侯爵様は、何も言わなかった。責める顔ではなかった。
訊き返されなかったことに、私は少しだけ安堵して、すぐにそれを恥じた。確かめてから、というのは、半分しか本当ではない。
この人が知っているのかどうか。知っていて黙っていたのかどうか。私はそれを、この人の顔で確かめたかったのだ。
そして今、確かめた。この人は、知らなかった。
少なくとも、私の目には、そう見えた。
訊きたいことは、まだあった。
百合絵様が夜中に見たという、手拭いに包んだ何か。鏡台の上から消えた、葡萄酒の瓶。
旦那様、あの瓶をお持ちなのは、旦那様ですか。
喉元まで出かかった問いを、私は飲みこんだ。今のこの人に、それを訊く気には、どうしてもなれなかった。
私は、帳面の最後の便箋を、その横に並べた。鉛筆の粉で灰色に曇り、その中に白い字の抜けた一枚を。
侯爵様は、ルーペを受け取らずに、紙に顔を近づけた。
文箱に。父上様の御名。いくつも、いくつも。
葡萄酒、苦し。
長い指が、白く抜けた字の上を、なぞるように動いた。
「父上様、というのは」
「小夜子は、私の父をそう呼んでいた」
侯爵様は、紙から目を離さずに言った。
「父は、小夜子が嫁いでくる二年前に死んだ。会ったこともないのに、仏間の写真に毎朝手を合わせていた」
先代の、侯爵様。
では、父上様の御名とは、先代の名前のことだ。
私は、頭の中で、文箱を並べてみた。
大奥様の居室の、黒塗りの文箱。家令室の、黒漆に金蒔絵の文箱。あれには小さな錠がついていて、鍵は真柴さんの懐中時計の鎖に下がっている。分家の方々や、叔父様の家にも、文箱くらいはあるだろう。
そして、この部屋の机の上にも、一つ。
蒔絵も何もない、黒い漆の文箱が、書類の脇に置かれていた。
侯爵様は、私の視線の先を見た。
それから、擦り出した紙の上の、いくつも、いくつも、という字に、もう一度目を戻した。
左の眉を、指でゆっくりとなぞる。
「父の名を練習する者がいた、ということだ」
コメント
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ああもう、この話……っ! 鉛筆で擦り出すシーンの緊張感が半端なかったわ。溝から浮かび上がる“葡萄酒 苦し”の一行、あれだけで背筋が凍った。 侯爵様が顔を覆って声を堪えるとこ、こっちまで息が止まった。知らなかったんだな…って思うと切なすぎる。 「冷えている」って手を一瞬だけ握るところ、あの距離感がめちゃくちゃ大正ロマンって感じで刺さったわ。 次が気になって仕方ない!