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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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父の名を練習する者がいた。
その言葉が、三日たっても頭から離れなかった。
小夜子様の日記の便箋は、侯爵様が書斎の鍵のかかる引き出しにしまった。歌集は、私が同じ紫の糸で、同じ穴に通して綴じ直し、藤の間の違い棚へ戻した。
虫干しは終わった。藤の間の板戸には、また錠が下りた。
そして私は、三晩続けて、ろくに眠れなかった。
*
「顔色が悪い」
朝の厨房で、侯爵様が言った。
フライパンの上で、卵がじゅうと鳴っている。侯爵様は火を弱めると、手袋を外したままの手を、私の額に当てた。
大きな手のひらだった。少し、ひんやりしていた。
「熱はない」
「少し、頭が痛むだけです。寝つきが悪くて」
侯爵様は、手を離さなかった。私の額に当てたまま、もう片方の手でフライパンの柄を揺すっている。
卵の焦げる匂いがした。
「旦那様、卵が」
「構わない」
ようやく手が離れたとき、卵焼きの裏は、案の定、黒くなっていた。
「医者を呼ばせる」
「大げさです。それに、お医者様なら」
宇佐美先生が、と言いかけた口を、侯爵様の声が遮った。
「宇佐美には、診せるな」
低い、平らな声だった。
侯爵様は、焦げた卵焼きを皿に移しながら続けた。
「医者なら、別のを呼ぶ。麻布の医者でいい」
「……いえ。本当に、大丈夫です。今日は、本所の父の顔を見に行ってまいります。父の顔を見れば、きっと治ります」
侯爵様は、皿を私の前に置いた。
「車を出させる」
「市電で参ります。そのほうが、気が晴れますから」
侯爵様は、少しのあいだ、私の顔を見ていた。
「……そうか」
それきりだった。
焦げた卵焼きを口に運びながら、私は、自分が今ついた嘘の数を数えた。
本所へ行くのは、本当だ。帰りに寄る。
けれど、その前に、本郷へ行く。
小夜子様の懐妊を知っていた人。滋養にと、葡萄酒を勧めた人。一月の死に、流行性感冒と書いた人。
侯爵様が、診せるなと言った人のところへ。
出がけに、侯爵様は竹皮の包みを一つ、私の手に載せた。
「父上の分も入れてある。四つだ」
包みは、まだ温かかった。私は、それを胸に抱えて、厨房を出た。
*
宇佐美医院は、本郷の大通りから一本入った角にあった。
白いペンキ塗りの、洋風の二階屋だった。硝子戸に金文字で「内科 小児科 宇佐美医院」。待合室には、絹の着物の奥様たちが、椅子に浅く腰かけて並んでいる。
名を告げると、白い看護帽の若い看護婦が、目を丸くして奥へ駆けこんでいった。
待つまでもなかった。
「これはこれは」
診察室の扉が開くなり、宇佐美先生が両手を広げた。今日も英国風の背広に、臙脂の蝶ネクタイ。口髭が、きれいに整えられている。
「久遠寺の奥様が、お一人で。光栄ですな。さあ、どうぞ、どうぞ」
待合室の奥様たちが、一斉にこちらを振り返った。久遠寺、と誰かが囁くのが聞こえた。
「あれが、三人目の」
「宇佐美先生は、前の奥様方も診ていらしたのでしょう」
「お可哀想に。先生がついていらしても、お二人とも」
扇の陰の声は、藤堂家の広間と少しも変わらなかった。
私は聞こえないふりをして、先生のあとについて診察室へ入った。
診察室は、明るかった。
窓際に、薬の瓶がずらりと並んだ硝子戸棚。白い布を掛けた寝台。真ん中に、大きな樫の机。
宇佐美先生は、私の脈を取り、聴診器を胸に当て、下瞼を指で引き下げた。
「お疲れですな。お気が休まらないのでしょう。あのお屋敷では、無理もない」
「……そうでしょうか」
「前の奥様方も、皆様、最初はそうでした」
先生は、気障に片目をつぶってみせた。
「いや、また失言だ。お忘れください」
先生は、机の上の紙の束から一枚を抜き、ペンを取った。
新しいカルテだった。
上の端に「宇佐美医院」と小さな明朝が刷られ、その下に、氏名、年齢、住所の欄。あとは縦の細い罫が並んでいる。
先生が「久遠寺栞」と書きこむ手元を、私はぼんやりと眺めていた。
そして、紙の右下の隅で、目が止まった。
欄外に、豆粒ほどの活字が二つ、刷られていた。
「九・三」
刷了表示だった。
医院や商店の帳票には、刷った年と月を、欄外に小さく入れておく店が多い。次の注文のときの目安になるし、どの版がいつのものか、刷った側にもすぐわかる。
父の店でも、そうしていた。「八・十」なら、大正八年の十月に刷った紙。
版を組み終えたあと、欄外の隅に、六号の小さな数字の活字を二本と、中黒を一本、ピンセットでつまんで嵌めこむ。それは、女学校から帰った私の役目だった。
「入れてくれと言われりゃ入れる。入れるなと言われりゃ入れん。お客の紙だからな」
父は、そう言っていた。たいていの客は、入れてくれと言った。
九・三は、大正九年三月。
二年半前に刷った紙を、今も使っているのだ。よほど多く刷ったのだろう。
それだけのことだった。そのときは、まだ。
*
「ところで」
先生は、ペンを置いて、椅子の背にもたれた。
「お屋敷は、お変わりありませんか。大奥様は、お元気で」
「はい。先日、秋の虫干しを仰せつかりまして」
私は、膝の上で手を揃えた。
「藤の間も、開けて、風を通しました」
先生の指が、机の上で、ぴたりと止まった。
「……藤の間を」
「はい。小夜子様のお部屋を」
私は、先生の顔から目を離さなかった。
「鏡台の上に、葡萄酒の瓶の跡が、丸く残っておりました。お薬の葡萄酒だと、伺いました」
口髭の下の唇が、かすかに動いた。
笑みの形を作ろうとして、作りそこねた唇だった。
「懐かしいお名前を、聞きました」
しばらくして、先生は窓のほうへ顔を向けた。
「藤の簪の、よくお似合いになる方でした。お加減の悪いときでも、枕元で歌をお詠みになって。私などには、ちっともわかりませんでしたが」
声が、少しだけ柔らかくなっていた。この人がこんな声を出すのを、私は初めて聞いた。
「あの方が、もし、お元気で春を迎えて……」
先生は、そこで言葉を切った。口髭を指で撫でつける。
「苦しまずに、逝かれました。流行性感冒で」
先生は、そう言った。
誰も、訊いていないのに。
春を迎えて、何だったのだろう。
訊き返したいのを、私はこらえた。今ここで、身籠っていた、と口にすれば、この人は二度と私に口を開かない。
「侯爵は」
先生が、ふいに私のほうへ向き直った。
「奥様が、今日ここへいらしたことを、ご存じで」
「……いいえ。本所の父のところへ、と申して出てまいりました」
先生は、ほう、と眉を上げた。それから、口の端だけで笑った。
「では、二人だけの秘密ということにいたしましょう」
*
「頭痛の薬を出しておきましょう。一週間たったら、また見せにいらっしゃい」
先生は立ち上がり、診察室の扉まで私を送った。
扉の把手に手をかける前に、先生の手が、私の肩に置かれた。
指に、力がこもっていた。
口髭が、耳元に寄せられる。煙草と、甘い整髪料の匂いがした。
「奥様。あの家のことは、あまりお調べにならないほうがいい」
囁く声は、もう気障ではなかった。
「お若い方が、長生きをなさるためにも」
私は、返事ができなかった。
先生の肩越しに、診察室の奥の壁が見えていた。
天井まで届く、背の高い書棚。その一段に、厚い綴りが、背を揃えて何冊も並んでいる。
背に貼られた白い紙に、墨で年が書いてあった。
明治四十五年。大正二年。大正三年。左から順に、一年に一冊ずつ。
大正七年。大正八年。
その隣の一冊の背で、目が止まった。
小夜子様が亡くなった年。そして、私の目の前の新しいカルテに刷られた、あの小さな数字と同じ年。
診察室の棚に、背に「大正九年」と書かれたカルテの綴りが並んでいた。
コメント
1件
みぅ🤍🥀だよ〜 え、めっちゃゾクッとした…「宇佐美には診せるな」って侯爵様が言ったのに、栞さんがあえてその先生のとこ行くの、もう読んでて心臓が痛かったよ…。 刷了表示の「九・三」に気づくところ、さすが印刷所の娘さんだなって思ったし、先生が「あまりお調べにならないほうがいい」って囁くシーン、優しさなのか脅しなのか、どっちにも取れる感じがたまらなかった。 大正九年のカルテが棚に揃ってる描写、最後の一文で全部の空気が変わった気がした…。続きが気になりすぎる🥀