『…蜜璃さんには言わないでね。』
○○は眉を下げ、寂しそうにそう告げた。
『自分のことのように喜んでくれたから。水を差すようなことは知られたくないわ。』
そう感情を読み取られないようにと綺麗に取り繕われた口調で言葉を吐く○○は弱々しい笑みを頬に溜めて、上品に彩られた簪がさされた黒い髪を風に吹かれるまま揺らしている。
「…諦めるの?」
確認するように問うた声は、もう彼女の心には響かないのだろう。結婚という綺麗な言葉で飾られた歪な真実が胸にしこりを残す。
『運命だもの。決められた運命には逆らえないわ。』
髪がサラサラと触れる白い頬に刻まれた笑みには、諦めの色が染みついていた。先ほど手当てして貼り付けた湿布が存在感を示すように月明かりに照らされて嫌に怪しく光る。
『…でも、そうね。』
それまで黙っていた○○が突然、なにか考えるように長い睫毛を伏せた。
『一生を添い遂げるのなら神様なんかじゃなくて好いた相手がいいわ。』
その言葉とともに、力のない歪んだ微笑が○○の口の辺りを囲むように刻まれる。
乙女めいたことを言うくせに、その表情は少しも変わっておらず、甘露寺さんみたいに頬を赤く染めることも声のトーンを高めることも無かった。
そんな無表情とも捉えられる顔には、辛うじて薄笑いが細い糸で括ったような薄く小さな唇を歪めていた。憎しみと呼べる感情だけが、○○の中に浮かび上がっている。
「…ねぇ、神様なんかじゃなくて僕が君を貰ってあげようか。」
そんな歪みに歪み切った感情を抱く彼女の姿に、口が勝手にそう言葉を作り出していた。すぐ隣に座る彼女の肩に触れるか触れない程度の力をかけて、軽くもたれかかる。
『あら、もしかしてわたくし口説かれてる?』
笛のように綺麗に澄んだ声でケラケラと笑いをあげ、僕の言葉を揶揄程度の扱いをする彼女の姿につい悪戯心が芽生えた。
僕はもたれていた肩を離し、○○の腕を掴んでぐいっと力をかけて押し倒す。そのまま頭を打たないように彼女の後頭部と床の間に自身の手を挟み込み、自分のすぐ下で淡い明かりが注ぎ込まれている青色の瞳を驚いたように大きく見開く少女の顔を覗き込む。
「口説いてるよ。」
同情でも冗談でもなく、本気で。
その言葉にポカンと困惑に染まった表情を浮かべていた○○だったが数秒経ってようやく意味を理解したのだろう。突然、熱い火でも灯したように自身の白い頬をポッと赤らめて細く薄い唇をさらに細くするようにきゅっと平行に結んだ。
初めて見た表情だった。視界に入れた瞬間、時間が止まって周りが透明になる。
心からダラダラと流れ出てくる未知の熱い思いに動かされるまま、抵抗の色を示さない○○の顔へ自身の顔を近づける。縁側に擦れた日輪等がかちゃりと軋んだ音を立てた。
『ぇ…なな、ななな何してるんですの!?』
顔を近づければ流石にこのまま何をされるか理解出来たのか、それまでされるがままであった○○がジタバタと逃げるように暴れ、大して怒りの籠っていない瞳で僕を睨みつける。
雪を想像させる白い頬には薄い赤色が添えられており、僕を睨みつける目を囲む下睫毛には、僅かに細い涙が滲んでいた。真っ白な肌にじわりと浮かび上がったその水滴は、酷く透き通っており、美しさを際立てる。その姿につい見惚れてしまっていると、無意識のうちに腕の力が緩んだ。
『お、お茶を入れてくるわ。』
その隙に素早く僕の腕の中から抜けると、赤らむ顔を隠すように顔を背け、厨房の方へと速足で足を進めていく。
「逃げるんだね」
『逃げてないわ』
乱れた自身の黒い髪を片手で整えながら目に宿った鋭さを強める○○の姿に、自身の身体が持っていた熱が一気に上がった。鬼と闘う時とは違う高揚感を覚える。
作り物のように形の整った、ガラス細工のような瞳も。赤い花びらのように薄い唇も。鈴の音のような綺麗な声も。僕にだけ見せたあの表情も、すべてが憎らしいほど愛らしい。
どうして、なんて問われても答えられない。僕自身が一番理解出来ていないから。
『…はい、どうぞ。』
数分たち、妙に疑り深い目つきでこちらをジッと見つめ、おずおずとした手つきで差し出された湯呑みを受け取る。丁度良い温度に調整された茶は、冷えた僕の手を温めてくれた。
そのまま湯呑みの角度を口元で傾け、喉に流れてきたお茶の味を飲みこむ。
「…取って食ったりなんかしないから安心してよ。」
『接吻しようとしてきたくせによく言うわ。』
耳の付け根まで真っ赤にし、声に滲んだ恥じらいを隠すようにしてわざと冷たく感じるような声が○○の口からか零れる。そんな無駄な足掻きを晒す○○の姿に、自身の胸がどきつくのを感じた。僕だけのものにしたいという独占欲が泡のようにぽつぽつと湧いてくる。
「…君が好き。」
月に照らされてキラキラとした光を吸い込むような真っ白な肌に手を添え、俯き気味に視線を逸らす○○の青い目を、無理やり自分の瞳と合わす。その顔には恥じらいの色が溢れていて、何かに耐えるように下唇をギュッと噛んでいた。
せっかく渇いていた下睫毛がまたもや涙で濡れる。
『…そう、』
絞り出すような乾いた声で○○はそう言葉を落とす。
そして頬に添えられていた僕の手を優しく解くと、今度は○○の手が僕の肩に添えられ、顔を近づけられる。
次の瞬間、驚くほど柔らかな感触が頬に走った。
『“鬼”のいない世界でまた会えたら、わたくしと恋仲になってくれるかしら。』
絹で作られた糸のように、細く澄んだ声だった。
接吻をされたことに気づかないくらい意識が混乱する。
「…え?」
どうして今の話の流れのなかで鬼が出てくるの。そう紡ごうとした唇が自身の意思とは反対にピクリと固まった。いつの間にか湧き上がってきた霞が海のような睡魔を作り出してきて頭の中を浸す。
「あ、れ…」
声が思い通りに出ない。体がフラフラする。
そのままゆっくりと薄明のような眠気がやって来て、煙のように意識が薄まっていく。
だめだ、今寝たらもう絶対○○と会えない。出来るだけ呼吸で眠気を遅らせないと。
そう思っているのに思いとは反対に段々と瞼が下がって来る。
『最期に話すのが貴方で良かった。』
ほとんど目を開けていられないほど強い眠気の中、悲しそうに微笑む○○の姿が視界に映った。それと同時に段々と意識が霞んで来る。瞼が眠たげに眼球を覆った。
だめだ。
『さようなら、無一郎くん。』
最期にそう呟いた○○の表情も見られないまま、僕は意識を手放した。
次に目覚めたときは、もうすべてが終わっていた。
「無一郎くん!起きて!」
体を揺らされる激しい振動とともに甘露寺さんの酷く焦ったような声がまだ眠気の抜けない自身の耳の中に入り込んで来た。
「…かんろじ、さん?」
声が掠れる。頭が何かに殴られた後みたいに鈍い痛みを持っている。
僕は何をしているんだっけ。霞がかった思考の中にそんな問いか生まれる。
「大変よ!○○ちゃんが…村の人たちがみんな居ないの!」
その言葉を聞いた瞬間、睡魔に囚われていた脳が一瞬で活性化され、心臓がドクンと嫌な音を立てた。急いで周りを見わたすが眠りに堕ちる前までは確かに傍に居た○○の姿が見えない。冷や汗がじわりと背筋に滲む。
「それに鬼の気配が今までで一番濃いの。」
「せっかく任務を早く終わらせられて○○ちゃんの結婚式に出席できると思ったのに…」
涙の滲んだ瞳を俯かせ、震える声を零す甘露寺さんの姿に、嫌な予感が胸に走った。
どうしてこんなタイミングで鬼の気配が?どうして村の日人たちは消えたんだ?
そんなすべての問いが答えに結び付いた瞬間、頭が真っ白になった。
コメント
2件
来世で会おう😭