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とてもそのまま実家に向かう気にはなれず、コンビニで少額の金を下ろしてから、駅裏の安くて古いラブホテルで1泊した。
一夜明けると土曜日の駅は、昨夜の喧騒が嘘のように静かで、大きな天窓から朝の光が差し込み、きらきらと輝いていた。
輝馬は昨日買った切符を改札口に入れようとしてまたエラーを連発した。
慌てて駆けつけた駅員が、切符は100㎞以内の場合は当日に限って有効なのだと、苦笑しながら教えてくれた。
不思議なことに恥ずかしいとは思わなかった。
輝馬は素直に切符を買い直し、電車に乗った。
平日と違って余裕で座れた。
窓から流れる風景を眺める。
これからどうすればいのだろう。
自分の扱いが不透明な会社。
先の見えないオンラインカジノ。
そして、自分を追っているかもしれない首藤灯莉。
全てが中途半端でどうしていいかわからない。
でもただ一つ。
あと一歩のところまできた峰岸優実だけは失いたくない。
輝馬は揺れる電車の振動と、足元から排出される心地よい熱風に瞼を閉じた。
――輝馬。
誰かの声がする。
――辛いこと、嫌なことがあったら、何でも私に言うのよ。
――あなたが望むなら、
――私があの女を、
――〇〇してやるからね。
◆◆◆◆
「ただいま」
玄関の戸はこんなに重かっただろうか。
輝馬がドアを開けると目の前には「お兄ちゃん!」
やけに着飾った紫音が立っていた。
「どうしたの!?」
紫音が抱き着きながら、慣れないメイクのせいか、ダマになったマスカラに包まれた目で輝馬を見上げる。
(どうしたの、か……)
お兄ちゃんさ、上司の女を寝取って、さらに会社に無断欠勤しててクビ直前で、クレジットカードも止められたあげく、ストーカー女の怒りを買ってしまって、今、大変なんだよ。
輝馬は胸の内で笑えない言葉を返しつつ、紫音の頑張ってセットしたのであろう髪の毛を崩さないように頭に手を置いた。
「実はちょっと打ち合わせの帰りで。先方の会社が近かったから寄ってみたんだ」
そう言いながら鞄を渡し、洗面所にいくといつものように手を洗った。
「今日は泊まるの?」
紫音が覗き込んでくる。
「うーん、そうだなあ」
今日はというか、当分ここに身を寄せるつもりだといえば、彼女は大喜びするに違いない。
しかし、それは同時に今まで保ってきた長男の威厳とイメージを壊すことにもなる。
そしてこのことをまず相談すべき相手は紫音ではない。
張りぼての大黒柱である父でもない。
この家の実質的な主。
あの女だ。
◇◇◇◇
紫音がいそいそと出かけたのと入れ違いに、晴子は帰ってきた。
「なんだ。来るなら来るって言ってくれればいいじゃない。そうしたら夕ご飯すき焼きとかにしたのに」
凌空の手前、表情にはあまり見せないが、相当喜んでいるのはわかる。
彼女はいつでも長男である自分が一番なのだ。
それを億劫に感じることも多いが、今日だけはありがたく乗っかざるを得ない。
「輝馬、ごめん。今日、特売日でお醤油の瓶をたくさん買ったの。キッチンの上の棚に入れるの、手伝ってくれる?」
そう言いながら晴子が少しかがむ。
「ね?あなた、背が高いから」
身長は父の方が高い。
もっと言ってしまえば、普段猫背の凌空の方が実は高い。
それなのに大きく開いたシャツの胸元からブラジャーをチラつかせた晴子は、いつも輝馬に頼むのだった。
(……我慢だ。我慢)
輝馬は自分に絡みつく視線を見つめ返した。
「もちろんいいよ」
輝馬はその手から、醤油の瓶を受け取りながら、気づかれないように下唇を噛んだ。
◆◆◆◆
「すげえ。松茸ー?」
食卓に色を添えた松茸の土瓶蒸しから漂う匂いに、凌空が大袈裟に反応する。
「ええ。去年の暮れにもらって、冷蔵保存してたのがまだあったなって思い出したの」
晴子が微笑みながら輝馬を見つめる。
「少しでも輝馬においしいものを食べさせたいから」
そう微笑む晴子に笑顔を返し、隣で口の端を引くつかせている凌空の脚を蹴りながら、輝馬は箸を持ち上げた。
「いただきます」
「めしあがれ」
晴子はというと、自分の箸を触りもせずに、うっとりと頬杖をついて輝馬を見つめている。
「食べにくいよ……」
さすがに言うと、「ふふっ」晴子は謎の笑いと共にやっと箸を手にした。
「ーー父さんは?」
休日のディナーだというのに食卓に揃わない家族の不在を聞くと、
「さあ?」
そっけない晴子の返事が返ってきた。
「……あいかわらずあんまり家にいないのか?」
横で当然な顔をして食べている凌空に聞くと、
「そうね。最近じゃ休みの方がいないかも。あのおっさん」
「…………」
輝馬は松茸と共に蒸された、彩の綺麗なエビを見下ろした。
物心ついたときから、父は家にいない人間だった。
それはもちろん金融会社のエリートという職業柄もあったのだろうが、それよりも彼の性格や性質に寄るところが多い。
少なくとも彼は、一度、大きな浮気をしている。
しかも相手の女を妊娠させるという最低な事件を起こしている。
だからずっと彼は父親でありながら市川家から敬遠されてきた。
金を貰う代わりに、衣食住は提供する。
それだけの夫婦関係を見ながら、輝馬と紫音と凌空は成長した。
その関係は、晴子の愛情を一身に受けて育った輝馬が大人になり家を出ても変わらなかったということだ。
やはり父では話にならない。
この女じゃなきゃ。
輝馬は隙さえあればこちらに潤んだ瞳を向けてくる母親を見つめ返した。
◆◆◆◆
ーーー輝馬?
ーーー輝馬ったら……!
瞼を開けると、目の前には晴子が立っていた。
「…………」
眼を瞬かせながら、あたりを見回す。
実家。
リビングのソファの上で、テレビを眺めていたら眠ってしまったらしい。
時計を見上げる。23時だ。
「凌空は……?」
「友達のとこ。最近夜遊びがひどくて」
聞くと晴子は小さく息をついて答えた。
「輝馬の時はそんなことなかったから、悩んでるの。注意してもっとひどくなっても困るし。ほら、あの子ってあなたと違って難しいから」
(……何やってんだよ、あいつ!)
輝馬はいつも自分には調子のよい弟に心の中で毒づいた。
父親は相変わらず不在だし、娘は色気づいて出かけていくし、次男がそんなんだから、いくらたっても母は長男に依存し続けているのだ。
しかも懐いているくせに自分を置いて出かけていく兄弟にも癪に障る。
凌空も、それに紫音だって……。
「お風呂、湧いたわよ」
晴子が輝馬の前にしゃがみこむ。
「独り暮らしじゃどうせシャワーだけなんでしょ。疲れてるんだからゆっくり熱い湯に浸かりなさい」
「あ……ああ」
輝馬は自宅なのにばっちりメイクした晴子の顔を見つめた。
話すなら……今がチャンスだろうか。
しかし、いつ父が帰ってくるかわからない。
紫音が、凌空が、いつ戻ってくるかわからない。
話を中断されることだけは避けたい。
一気に話して、最後は首藤灯莉で終わりたい。
そうすればきっと、彼女は守ってくれる。
自分を誰よりも愛しているのは、
母親である晴子なのだから。
「……母さん、先に入ってよかったのに」
輝馬は花柄のブラウスにピンク色のプリーツスカートを着ている母親を見下ろした。
「あなたに一番風呂を譲りたいのよ」
晴子は目を細めた。
「それとも……一緒に入る?」
「!?」
輝馬は眠かった目を一気に見開いた。
「昔みたいに」
晴子はそう言うと立ち上がった。
(……一緒に、か)
その提案に驚きはしたが、輝馬は回らない頭で考えた。
風呂はある意味密室空間。
父が帰ってきたとしても、凌空や紫音が戻ってきたとしても、風呂までは入ってこない。
もしかしたら誰にも邪魔されず2人で話せる絶好の場所かもしれない。
幸いなことにこのマンションの風呂は家族で入れるようにと2坪の広さがある。
まさか2人で湯船に浸かることはないだろうし。
「ーーいいよ」
輝馬は大きく息を吸った。
「ちょっと相談したいこともあるし」
そういうと自分から提案したくせに、晴子は妙に驚いた顔をした。
だがすぐに生娘のように頬を染めると、ゆっくりと頷いた。