「……今の」
いるまは、目を見開いた。
確かに、見えた気がした。
らんの席。
誰もいないはずの場所に、
一瞬だけ、
見慣れた影があった。
「……らん?」
思わず、名前を呼ぶ。
返事は、ない。
カーテンが揺れているだけ。
「……気のせい、か」
ゆっくり、息を吐いた。
でも、
胸の奥がざわざわして、
落ち着かなかった。
その日の夜。
机に向かっても、
勉強は全然進まなかった。
シャーペンを持つ手が止まる。
代わりに、
スマホに手が伸びる。
トーク画面。
らんとの会話。
「……」
スクロールする。
昨日。
一昨日。
その前。
『今日数学やばい』
『眠い』
『帰ろ』
何気ない言葉ばかり。
でも、
その一つ一つが、
今はやけに遠く感じた。
「……」
ふと、
違和感に気づく。
「……あれ」
昨日まであったはずの会話が、
少し、
減っていた。
「……なんで」
指が止まる。
確かにあったはずの言葉が、
消えている。
思い出はあるのに、
記録だけが、
消えていく。
「やめろよ……」
小さくつぶやいた。
まるで、
らんの存在そのものが、
少しずつ消されているみたいだった。
そのとき。
通知音が鳴った。
ピコン。
「……!」
心臓が跳ねる。
急いで画面を見る。
でも、
それは、
すちからのメッセージだった。
『明日、先生がらんのことで話あるって』
「……」
期待してしまった自分が、
少しだけ、
苦しかった。
ベッドに横になる。
部屋は暗い。
静かだった。
目を閉じる。
すると、
思い出す。
昨日の帰り道。
隣を歩いていた、らん。
『写真撮ろ』
笑っていた顔。
『また明日』
そう言った声。
「……らん」
名前を呼ぶ。
暗闇の中。
当然、
返事はない。
それでも、
耳の奥で、
気がした。
『……いるま』
呼ばれたような気がした。
「……!」
目を開ける。
誰もいない。
静かな部屋。
「……」
夢でも、
幻でもいい。
もう一度、
会いたかった。
次の日、
なにかが、
変わり始める。
次の日の朝。
空は、少し曇っていた。
いるまは、重たい体を起こす。
昨日は、あまり眠れなかった。
何度も目が覚めた。
そのたびに、
「らん」
って名前を呼びそうになって、
やめた。
スマホを見る。
……通知は、ない。
もう、
期待するほうが、
間違いなのかもしれなかった。
学校に着く。
教室のドアを開ける。
「おはよ」
みことが言った。
「……おはよ」
返事をする。
声が少しだけ、かすれた。
席に座る。
そして、
振り返る。
窓側。
後ろから二番目。
らんの席。
——空っぽ。
それは、
もう見慣れてしまった光景のはずなのに。
毎回、
胸が苦しくなった。
「ねえ」
こさめが言った。
「今日さ」
「……なに」
「先生、誰の話するんだろ」
「……え?」
一瞬、
意味がわからなかった。
「昨日、すちが言ってたじゃん」
みことが言う。
「休んでる人の話するって」
「……」
いるまの心臓が、
強く打った。
「……らんの話だろ」
そう言った。
当たり前みたいに。
でも、
その瞬間。
こさめと、みことが、
顔を見合わせた。
「……らん?」
こさめが言う。
「誰?」
時間が、
止まった気がした。
「……は?」
いるまは、こさめを見る。
「なに言ってんの」
「え……?」
こさめのほうが、
困った顔をした。
「ごめん、知らない」
「同じクラス?」
みことが聞く。
「……おい」
いるまの声が、
低くなる。
「冗談やめろよ」
「冗談じゃないよ」
こさめは言った。
その目は、
本気だった。
「……すち!」
いるまは振り返る。
「お前はわかるよな!?」
すちは、
少し驚いた顔をして、
「……」
少し、
考えてから言った。
「……ごめん」
「……知らない」
頭の中が、
真っ白になった。
「……なつ」
最後の希望みたいに、
名前を呼ぶ。
なつは、
少しだけ、
申し訳なさそうな顔をして、
首を横に振った。
「……なんでだよ」
声が、
震える。
「なんで」
昨日まで、
一緒にいたのに。
笑ってたのに。
話してたのに。
「なんで、忘れてんだよ……!」
チャイムが鳴った。
先生が入ってくる。
「ホームルームを始める」
いつも通りの声。
いつも通りの朝。
「今日は、転校生の話がある」
——転校生?
「今日から、このクラスに一人入る」
教室がざわつく。
いるまは、
それどころじゃなかった。
頭の中は、
らんでいっぱいだった。
そのとき。
先生が言った。
「……あれ?」
先生は、
出席簿を見て、
首をかしげた。
「一人分、多いな……」
先生は、出席簿を見たまま言った。
教室が、少しだけざわつく。
「え、なにそれ」
「ミス?」
ひそひそ声が広がる。
先生は、ページをめくったり戻したりしている。
「おかしいな……」
その言葉を聞いた瞬間、
いるまの心臓が、
どくん、と強く鳴った。
(……らんだ)
理由はわからない。
でも、
そう思った。
「先生」
気づいたら、
立ち上がっていた。
「どうした?」
先生が見る。
いるまは、
少しだけ、迷って。
それでも、言った。
「……そこに書いてある名前」
喉が、詰まりそうになる。
「らん、じゃないですか」
教室が、
しん、と静かになった。
「……らん?」
先生は、繰り返した。
「誰だ、それは」
その一言で、
世界が、
音を失った。
「……え」
いるまの口から、
かすれた声が出る。
「……このクラスの」
言葉が、うまく続かない。
「窓側の後ろから二番目の席の」
指をさす。
空っぽの席。
「……」
先生は、
その席を見た。
そして、
少し困ったように言った。
「いるま」
「……はい」
「そこは、最初から空席だ」
…違う。
違う。
違う、違う、違う…
「違います」
気づけば、
強く言っていた。
「いました」
息が荒くなる。
「らんは、いました」
先生は、
何も言わなかった。
ただ、
少しだけ、
心配そうな顔をした。
「……あとで、話そう」
その言葉は、
優しかった。
でも、
いるまには、
とても残酷だった。
ホームルームが終わったあと、
なつが小さな声で言った。
「……いるま」
「大丈夫か?」
「……」
答えられない。
「疲れてるんじゃない?」
みことが言う。
「最近、ちゃんと寝てないでしょ」
「……」
違う。
そうじゃない。
疲れてるからじゃない。
夢でもない。
「……いたんだよ」
小さく言った。
「本当に」
誰に言ったのか、
自分でもわからなかった。
そのとき。
窓の外で、
風が吹いた。
カーテンが、
ふわりと揺れる。
そして、
いるまは見た。
一瞬だけ。
本当に、
一瞬だけ。
空っぽの席に、
誰かの輪郭が、
重なった。
黒い髪。
見慣れた姿。
「……らん」
名前が、
こぼれた。
その瞬間、
輪郭は、
消えた。
でも、
確かに。
そこに、
いた。






