テラーノベル
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ここは、グーレ山と言う山の奥深くにある、大きな研究所。
その三階の小さな角部屋で、青年コバルトは憂鬱そうに身支度をしていた。
「ついに、この日が来てしまったか…」
コバルトは、そう呟きながら新品の白衣に腕を通した。
この場所では、小さな子どもたちを被験者とした非人道的な実験が、もう十年以上も行われている。そのため、被験者が増えるにつれ、研究員の人手不足が深刻化し、ある程度成長しても生き残っていた被験者たちは、死を選ぶか、研究員として働く制度が今年から出来た。今年で十七歳になったコバルトは、その第一号になったのである。
「研究員になるのは嫌だが、死ぬのはもっと嫌だしな……」
羽織った白衣を鏡越しに見つめ、コバルトはため息をついた。
研究員になると言うことは、人体実験を行う側になると言うことである。コバルトは、それが嫌で仕方がなかった。しかし、研究員になることを拒めば、死が待っている。どんなに嫌であろうと、それ以外に生き延びる術はないのである。
自分が一番分かっている痛みを、罪のない子どもたちに与え続ける罪悪感と、逆らえば殺される恐怖に押し潰されそうになりながら、毎日働かなくてはいけない。そんな生活がこれから始まると思うと、気がおかしくなりそうであった。
「もうこんな時間か…!急がなければな。」
気が付けば、時刻はまもなく九時になろうとしていた。コバルトは急いで身だしなみを整え、自室を飛び出した。
コバルトが向かったのは、研究員の事務室だった。そこで、毎日朝礼が行われる。その内容は、研究員たちが博士からの連絡を聞いたり、この研究所における心構えや理念を斉唱する、と言った古臭いものだ。それに加え、今日は先輩研究員たちとの顔合わせも兼ねているため、遅刻は出来ない。重い足取りでなんとか進みながら、彼は事務室を目指した。
事務室に着くと、コバルトは奥の方に立って、部屋中を見渡した。薄暗い蛍光灯、ぎっしりと並べられた旧JISデスク、ただ淡々と仕事の準備をしている研究員たち。気が重くなるような光景が、目の前に広がっていた。
(俺は、これから此処で働かなきゃならないのか…)
コバルトが、心の中でそうぼやいた時だった。
部屋の手前の扉ががらがらと開き、研究員二人と金髪の中年女性を従えた、中年の男が入ってきた。この研究所の所長、ストロン博士である。
「おはよう、研究員諸君。」
その瞬間、部屋中に張り詰めた空気が流れ出す。
「それでは、朝礼を始める。まずは、いつも通り我が研究所の理念と心構えを唱えよう。私の言ったことを、復唱したまえ。所長の命令は絶対」
「所長の命令は絶対」
「報告はいち早く」
「報告はいち早く」
「被験者は道具、情は無用」
「被験者は道具、情は無用」
「逆らえば命はない」
「逆らえば命はない」
コバルトは、この理念を聞いて、元々重かった気が更に重くなったように感じた。
(…被験者の時に聞かされたことと、ほぼ同じ内容だ。相変わらず独裁的で、まるで人を人とも思っていない。本当に酷いな、此処は。)
それと同時に、この研究所への強い怒りを覚えた。
朝礼は、どんどん進んで行く。
「次に、新人紹介だ。新人は前へ。」
博士に指示され、コバルトは慌てて前へ出た。彼の他に、銀色の髪をした青年も後に続いた。
彼らが研究員たちの前に立つと、博士が二人を皆に紹介し始める。
「今日から新しく研究員となった、元被験者のコバルト=ベックフォードと、セレン=カートライトだ。バーク、ローレン。彼らの教育は君たちに任せる。カリーナ、お前はチョーカーを取りに行きたまえ。今日の連絡は以上だ。諸君、業務に移りたまえ。」
博士は、連れ添いの研究員二人にそう言い、すぐさま事務室を出て行った。
すると、博士と一緒にいた二人の研究員が、コバルトたちに声を掛けてきた。
「ベックフォードとカートライトと言ったな。私はお前たちの教育係を務める、バーク=ジャックマンだ。」
「同じく、教育係のローレン=キャンベルだ。お前たちには、仕事を教える前にこれをつけてもらう。」
ローレンとが言うと、金髪の中年女性が首輪のようなものを持ってきて、コバルトたちに渡した。
「これは…?」
コバルトが尋ねると、バークが淡々と答える。
「それは電撃チョーカーだ。所長に逆らったり、無理矢理外そうとしたり、壊そうとすると、強い電気が流れるようになっている。」
コバルトは、改めてこの研究所の恐ろしさを思い知った。
「さぁ、早く着けろ。我々の見ている前で、確実に。」
「拒否すれば、研究員になることを拒否したと見なして殺すぞ。」
バークとローレンが、苛立った様子で急かしてくる。
これを着けてしまえば、博士に絶対服従しなければならない。しかし、着けなければ命はない。コバルトたちは究極の二択に葛藤した。
「おい!早くしろ!」
バークとローレンは、更に急かしてくる。
我慢ならなくなったコバルトは、思わず声を挙げた。
「…すみません。少し、時間をください。さすがにすぐには…」
「黙れ。我々はお前たちに一刻も早く仕事を覚えさせなくてはならない。殺されたくなければ、つべこべ言わずにさっさと着けろ。」
バークとローレンの表情が、一層険しくなる。それでも、コバルトは屈することなく言った。
「そこまで仰るのなら伺いますが、お二人は怖くなかったんですか?」
「うるさい!いいからさっさと着けろ!」
「所長への忠誠心があれば、そんなもの怖くないはずだろう。早くしろ。死にたいのなら、話は別だがな。」
バークもローレンも、コバルトの言うことに耳を貸さない。元々被験者でない二人には、コバルトやセレンの気持ちが分からないのだ。
まだ何か言いたそうなコバルトに、セレンが言った。
「多分、これ以上何言っても無駄だぜ。殺される前に、大人しく着けた方がいい」
「あぁ、そうだな…」
コバルトは、悔しそうな顔をしながら首輪を着けた。
その後、二人はバークとローレンからたくさんの仕事を教わった。
被験者カルテの書き方、報告書制作の仕方、薬品や備品類の在庫表の書き方などの事務作業や、実験記録の取り方、夜間巡回の説明など。覚えることが山ほどあった。
「これで、一通り仕事を教えた。分からないことがあれば、我々に聞くように。」
「はい、ありがとうございました。」
コバルトとセレンは、揃って頭を下げる。
「では、今日はもう自由にしていいぞ。」
バークとローレンは、そう言い残して速やかに去って行った。彼らの姿が見えなくなると、三人は休憩室に向かった。
休憩室に着くと、セレンは伸びをしながら言った。
「あー、疲れた!」
そう言って、ドサッと椅子に座る。
「そうだな、覚えることが山ほどあるし、複雑な仕事が多い」
コバルトも、椅子に腰掛けながら言った。
この休憩室には、彼らの他に誰もいない。ようやく、心身共に休まる時間がやってきた。二人は、しばらくぼんやりしながら過ごした。もう何も考えたくないほどに、心が疲弊していたのである。
それから十分ほど経った頃、セレンが口を開いた。
「えっと、コバルト…だっけ?」
「そうだが…何だ?」
コバルトが顔をあげると、セレンは続けて言った。
「あー…大したことじゃないんだけどさ。今日、朝礼終わってすぐ仕事だったろ?だから、ちゃんと自己紹介とか、挨拶とか出来てなかったなって思って。オレはセレン=カートライト。同期として、これからよろしくな。」
コバルトは戸惑いながら、差し出された手を握り返して言った。
「…俺は、コバルト=ベックフォードだ。こちらこそ、よろしく頼む。」
すると、セレンはコバルトの顔をじっと見つめ、気まずそうに尋ねる。
「コバルト、もしかして結構緊張してる?」
「よく分からないが…そう見えるか?」
「おう。しゃべり方とか、表情とか結構堅いぜ?普通に友達として、もっとラフに接してくれて良いから。オレもそうするし」
「友達…か…」
コバルトは、少し不思議そうな顔をして呟く。
彼は此処に引き取られた時、僅か六歳であった。それ以前の記憶は、何故か全くと言って良いほどない。友達などいた覚えがなく、それがどんなものなのかよく分からなかったのだ。
「あぁ…嫌なら別に良いんだけどさ」
セレンは少し表情を曇らせて言った。
「いや、そういう訳ではない。ただ、友達がどんなものなのか、あまり分からなくてな」
コバルトがそう呟くと、セレンはフッと笑って言った。
「だったら、尚更友達になろうぜ。こういうのは身を持って知るのが一番だからよ」
「…俺は本当に何も分からないが…それでも良ければ、よろしく頼む」
「おう!」
こうして、二人は良き友となったのだった。
それから、彼らは研究員寮のセレンの部屋に移動し、お互いの身の上話や、夢を語り合った。
「そうか。セレンは、此処に来る前の記憶があるんだな。」
「おう、なんとなくだけどな。なんか、四、五歳ぐらいの時に急に親がいなくなって、それから親戚中をたらい回しされたあと、ちょっとの間孤児院にいたんだ。けど、もう親の顔も親戚の顔も忘れてるし、孤児院にいたときの記憶もぼんやりとしか残ってないから、思い出して辛くなったりとかはしないぜ。」
セレンはそう言って、どこか諦めたような目をした。しかし、それは一瞬のことで、すぐに元の調子に戻った。
「コバルトは?さっきの言い方的に全然覚えてない感じ?」
「あぁ。何一つ思い出せない。……正確には、思い出そうとすると、頭がぼんやりとして…まるで、記憶自体は頭の中に存在するのに、心がそれを拒んでいるような、そんな感覚だ」
「そっか…」
重々しい答えに、さすがのセレンも言葉を失ってしまった。
狭く簡素な部屋に、静寂が漂う。
数分ほどして沈黙を破ったのは、セレンだった。
「なぁ、コバルト。オレさ、夢があるんだ。」
「夢?」
「あぁ、いつか絶対此処を出て、自由になって、楽しく生きる。それがオレの夢。」
本当に、セレンには驚かされる。この場所しか知らず、此処を出ると言う発想すらなかった自分とは、大違いだ。
コバルトが、ただただ感心していると、突然セレンが尋ねてきた。
「コバルトは?叶えたい夢、ないのか?」
「俺か?……俺は…俺の、夢は…」
全く考えたこともないことを聞かれ、コバルトは言葉に詰まった。
セレンと違い、此処にいた時以外の記憶がない彼に取って、実験漬けの日々が当たり前だった。そのため、研究所を出たいとも、楽しく生きたいとも、思ったことがない。苦しくて、痛くて、怖かった実験の記憶と、他の被験者たちが次々に死んで行った凄惨な記憶しか残っていなかった。もしかしたら、此処に連れて来られたばかりの頃には、逃げ出したいと思うことぐらいはあったのかもしれないが、はっきりとは覚えていない。
ならば、自分は何故研究員になってまで生きる道を選んだのだろうか。コバルトは、考えに考え抜いて答えた。
「俺は……この地獄のような研究を終わらせたい。そして、被験者たちを全員解放して、救いたい」
しかし、そう言い切ったあとで呟いた。
「…まぁ、こんな無謀な夢、叶うはずないだろうがな」
それを聞くと、セレンはスッと立ち上がって言った。
「そんなことないだろ。まぁ…そりゃ、一人じゃ無謀かもしれないけどさ。誰かと協力したり、助けてもらったりすれば、少しぐらい、可能性はあると思う。だから、最初から叶わないなんて、言うなよ。」
「だが、協力してくれる人や、助けてくれる人なんて、此処には…」
コバルトがうつ向いて言うと、セレンはコバルトに歩み寄り、手を差し出した。
「オレが協力する。友達の夢は、応援したいからさ。それに、お前の夢が叶えばオレも夢に近づける。だから、一緒に頑張ろうぜ。」
コバルトは、伸ばされた彼の手を取って言った。
「ありがとう、セレン。一緒に夢、叶えような。」
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