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この物語はキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
くるしい。
目の前にいる、人の形をした何かよりも、
私は、酸素がないという絶望的状況に、思考のすべてを奪われている。
酸素皆無。
つまり、訪れるは――死、のみ。
こんな所で死ぬわけにも行かない。でも逃げ道はない。よりにもよって謎の「わたし」と名乗る裁判官まで。
目の前の“わたし”は、にこやかにこちらを見つめて、呼吸をしている。
この水中で、淡々と。
……違う。
前言撤回だ。
呼吸はしていない。
人じゃない。
肩は上下しないし、普通なら胸はふくらんで縮むを繰り返すはずが、全くもってその様子がない。
こいつは人外か。人の形をした、感情だけを持った何か。
しかし、もう終わり。
裁判なんて受ける前に、私の魂は花火のように儚く散るのだ。
あぁ、レンに最後、会うこともなしに力尽きるのーー。
ちぇ……。
マッチ棒を摩った時のような音が、水の波紋のように広がった。その音を発したのは私じゃなく、”わたし”だった。
つまらないと言いたげに目を伏せて私を睨みつけると、 少女は乱暴に私の顎を掴んだ。
「させるわけないでしょ?……ちょっとくらいは自分を見ろ!」
彼女は、私の顎を掴んだ手で、無理やり顔を上げた。
「ほら、吸って」
「ぅ……は……」
そんなの無理だ。ここは水中だ。魚みたく、エラ呼吸……なんてできるはずがない。
彼女は少し可笑しい……?いいや、全ておかしいの間違いだ。
顎を掴んだ手を振りほどこうと、首を左右に振り回す。
でも離されることはなく、むしろ脈打つ痛みまで感じる。
「吸いなさい。イロハ。」
「ぐ……っ、あ。」
私は、酸素のない、水の味しかないこの空間を思い切り鼻から飲み込んだ。すると、 肺の奥に、冷たい空気が流れ込んできた。
水の中なのに。
苦しく……ない?
息ができる。先程までは、ただ肺に無駄な水を溜め込むことしか出来なかった。
今は違う。すぅ……と、たくさんの空気が、私を生かしている。
「ほら、それでちょっとは話が通じるようになる。」
「……あなた何者?」
開口一番、そう尋ねると、聞き飽きたようにため息をついた。同時に、泡沫が出来上がり、シャボン玉のように割れて消える。
「だから、”私”の罪の形だって。」
「私に罪があるの?」
「あるわよ。そりゃあ、どれだけすっごい善人でも、間違えた道を進むことはあるでしょ?」
「申し訳ないけれど、あなた、私じゃないわ。私、あなたのように乱暴じゃないもの。」
”わたし”は、ニヒルな笑みを浮かべると、わざとらしく口をとんがらせて、楽しそうに話し始める。
「あれれ〜?いつもの取ってつけたような敬語はどうしたの?”静寂を継ぐ者”なんでしょ?わたしごときに惑わされるなんて……」
ははは!と、耳心地の悪い笑い声を上げるそいつは、ニヤリとした笑みでこちらを見つめる。
ここでなにか言い返せばいいと思うけれど、少女のために聞きに徹してみる。
言い返すのも、無駄なだけだ。
少女は、ひとしきり笑うと、こう続けた。
「ほんと、阿呆だよね。 ……それとも、世間知らずなお姫様、って言った方がいい?」
そこまで言葉を組み立てたと思うと、一拍置いて、弧の形だった口元が、にょいん……と下がっていく。
そして、雨粒のように、ぽつり。
「いつまで、見ないふりするつもり?」
一体、何を言っているの?言葉を話しているのよね?ちゃんとした言語を話しているはずなのに、意味がまったく掴めない。
怒っているのか、嗤っているのか。
どちらでもいい。
その言葉には、確かな棘と毒があった。
「見ないふり……って。」
「してるじゃない。あんたの中には、迷いがあるの。それを見ないふりして、善人のふりしてんの。つまり、偽善者だよ。あんたは。」
「何を言っているの?……あなた、おかしいわよ。」
「おかしいのはお互いでしょうよ。」
そう吐き捨てると、今度は私の胸ぐらを思い切り掴んで、何かを我慢するように、ギリギリと、歯を食いしばった。
「あんたわかってないんでしょ……。あの日のことも、思い出さないまま、全部、全部!」
「……?」
自分でも、ポカンと口が開いているのがわかった。さっきまで嘲笑ってきたやつが、突如声を荒らげるのだから。
「ほんとは……人の救い方、こんなのでいいのか迷ってるでしょ?」
「あ……。」
水の底で、世界は静かだった。
音も、時間も、感情さえも、薄く引き伸ばされたみたいに。
“わたし”は、私の胸ぐらを掴んだまま、ふっと力を緩めた。
指先が、私の胸元から離れる。
そして、子供みたいに首をかしげて、笑う。
「ねえ、イロハ」
赤い瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「“死を願う者には、死を”……だっけ?」
胸が、きしりと鳴った。
「それ、何回言った?
何人に、そうしてきた?」
「……それは」
「答えなくていいよ」
“わたし”は軽く手を振る。
「だって、ちゃんと覚えてるでしょ。
泣いてた人。
叫んでた人。 震えて、縋ってきた人」
一つ一つ、指を折る。
「その人たちが、本当に
“死にたい”って願ってたと思う?」
「…………」
喉が、詰まる。
「わかんない?」
声が、急に低くなる。
「追い詰められてる人は、思考が固まっちゃうのよ。だから”死ぬ”ことしか考えられなくなるの。
それを――」
赤い瞳が細まる。
「死にたいって、翻訳したのは誰?」
「……違う」
絞り出すように、私は言った。
「私は……救おうと……
苦しみから、解放した……」
「うん」
“わたし”は、あっさり頷いた。
「そう思わないと、耐えられなかったんだよね」
その一言が、深く刺さる。
「だってさ」
一歩、近づいてくる。
「苦しんでる人を前にして、
“生きろ”って言う方が、ずっと残酷だもん」
「…………」
「生きた先で、また苦しむかもしれない。
また泣くかもしれない。
それを見るのが、怖かった」
“わたし”は、にやっと笑った。
「だから終わらせた。
自分が見なくて済むように」
「違う……!」
反射的に声を上げる。
「私は、そんな……」
「じゃあ聞くけど」
遮るように、言葉が落ちる。
「レンに聞かれた時、どうして迷ったの?」
――心臓が、跳ねた。
「あの子、言ったよね」
“わたし”は、真似るように、少しだけ声色を柔らかくする。
「『そんなふうに人を殺せるのか?』って」
沈黙。
「静寂ならさ」
ぽつり、と。
「揺れないはずでしょ」
その瞬間、胸の奥で、何かが崩れた。
「……私は……」
言葉が、続かない。
“わたし”は、少しだけ困ったように眉を下げる。
「ねえ、イロハ」
今度は、優しい声。
「善人ぶるの、やめよ?」
水が、静かに揺れる。
「あなたは残酷。
でも、冷たいわけじゃない」
一拍。
「ただ、自分のエゴを
“救い”って呼んでただけ。 」
ゆらり、るらり、と。私の視界が澱んでく。
落ち着け、落ち着け、なんて、この心臓は私の心の声を全く聞いていない。どっくん、どっくんと速まっている。
逃げ場のない静寂が、私を包む。
「大丈夫」
“わたし”は、微笑んだ。
「壊しに来たわけじゃないよ」
赤い瞳が、深く、深く沈む。
「向き合わせに来ただけ」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
これ以上、聞きたくない。
これ以上、知りたくない。
私は反射的に、両手で耳を塞いだ。
「……やめて」
声が、震える。
「もう、いい……。
聞きたくない。 知らなくていいわ。」
水の中なのに、世界が遠のく。
“わたし”の声も、湖の底のように歪んでいく。
――このまま、何も聞こえなければいい。
そう思った、その時。
「ふふ」
小さな、笑い声。
耳を塞いでいるはずなのに、
直接、頭の内側に響いた。
「無駄だよ、イロハ」
“わたし”の声は、さっきよりもずっと柔らかい。
「だってさ」
一歩、近づいてくる気配。
「ほんとは知りたいんでしょ?」
指先が、私の手首に触れる。
「忘れたままの理由も。
思い出せない夜も。
あの時、何を選んだのかも」
私は、首を横に振る。
「違う……」
「違わないよ」
“わたし”は、ささやく。
「だって、あなたは
忘れたことを“楽”だと思えてない」
その言葉に、心臓が強く跳ねた。
「苦しいでしょ」
手首を、そっと掴まれる。
「胸の奥に、
ずっと引っかかってる」
――思い出せないのに、 忘れられない。
「思い出そうよ」
“わたし”の声が、静かに落ちる。
「全部」
赤い瞳が、私をまっすぐ見つめる。
「あなたが見なかったこと。
あなたが、消された記憶を。」
水面が、ざわりと揺れた。
「大丈夫」
一瞬だけ、子供みたいに笑って。
「壊れないよ」
その笑みが、
なぜか一番、怖かった。
「だって――」
指先が、私の額に触れる。
「これは、あなたの記憶だから」
次の瞬間。
視界が、白く弾けた。
音も、水も、重さも消えて――
代わりに、胸を締めつける懐かしい痛みが、流れ込んでくる。
――忘れていたはずの、夜。
――覚えていないはずの、選択。
私は、息を呑んだ。
「……ぁ」
記憶が、
開いてしまった。
「……どこに、いるんだろう。」
誰かに向かって言うでもなく、俺一人に向けて、そう言った。
さらり、しゃらり。
緑の葉の豊富な木が、葉と風で拍手をしている。
公園のベンチに座る俺は、きゃっきゃっ、と歓声を上げて、滑り台やブランコで、思い思いに遊んでいる子供を眺める。
ワフッ!
音の方を見れば、 低く、元気な声で鳴き、尻尾をブンブン振る柴犬と、その柴犬のリードを持っている男性が、公園を出ていく。
「……はぁ。」
大層なため息をこぼして、俺は立ち上がった。
今日も、居ない。
イロハに会わないようになって、数日経つ。
今日こそは会おうと、いつもの公園で待っているが、来る気配は無い。 それが、 こんなに長く感じるなんて思わなかった。
待つのがダメなのか……。
「これがダメなら、捜すしかないか。」
でも、問題がひとつ。
イロハの好む場所や、普段居る場所が、よく分かっていないのである。
知ってるとすれば、この間行ったあの野原とか……。
俺は、悩んでいる場合では無いと、頭をブンブンと振り回した。
うぅ……!悩むな!俺がどうにかして会いに行けばいい!
さっきより、もっと頭を振っていると、小さな女の子がまじまじと、滑り台の上から俺を眺めていた。
純粋無垢な、「不思議な人」を見る目で。
「おにーさん、なにしてるのー?」
小さな子供に、 俺は思わず赤面した。傍から見たら、不審者以外の何者でもないだろう。何してんだ、俺は。
お得意の愛想笑いをした後、「気にしないで」とだけ言って、俺はそそくさと公園を後にした。
公園を出て、まず最初に向かったのは最寄り駅だ。
以前、公園に行って彼女の姿が見当たらず、捜しにいくと、
駅の噴水があるところで、ひとりベンチに腰掛けていたことがあった。
今回もそこにいる、という確証はないが、行ってみる価値は十分にあるだろう。
居てくれ、居てくれ、という胸の高鳴りと、
なんて声をかけようか、なんて言う弱気な気持ちが混ざり合って、なんとも言えない「曇り」を落としていく。
心臓の鼓動に合わせて、足を動かす。
てくてくと歩いて駅に着いて、噴水のある石畳のエリアに向かい、見渡してみる。
でも、そこにはイロハの姿はなく、待ち合わせの様子の若者や、少しガラの悪い、金髪の男性しかいなかった。
白髪、白い羽織、袴のような服。
そんな姿は、どこにもない。
「……居ない。」
居ないなら、次だ。
続いては、野原。
深い緑と、草花が繁茂する場所にも、いなかった。
「……ここも、居ないか。」
拳を強く握った時、俺の脳裏に、この野原で楽しそうにくるりと舞う、イロハの姿がチラつく。
舞踏会に訪れた、周りをうっとりさせる一輪の花のような姿。
――確かに、ここにいた。
……次!
だが、
その次も、その次も、その次も、どこにもいなかった。
「……っ、どこ行った?」
俺を置いて、どこに行った?
なんのお便りもなしに、いなくなって……どこにいるのか分からないなんて。
今このとき、俺はイロハの事を、何も知らないんだということを悟った。
普段、どこで寝て、朝を迎えているのだろう。
お金もないのに、どうやって食事をして、水を飲んで、生命を維持しているのか。
社会的には、きっとイロハは……存在していないことになっているのか。
親もいない。友達もいない。
俺と出会うまで、彼女は……
どういう日々を、たった一人で過ごしていたのだろう。
とぼとぼと歩いていた足を止め、俺は歩道の真ん中で顔を伏せた。
「……ごめん。」
誰に謝っているのかも、分からない。ただ罪悪感に襲われて、それを紛らわせたいだけなんだ。
捜し物を見つけ出すのは、得意なはずなのに。
この街の、どこにもいない。見つけられない。
……この街……の?
この瞬間、俺は、視野の狭い馬鹿だと思い知った。
この街にいない、どこを捜してもいないんなら、
街に固執せずに、別の場所に捜しに行けばいいじゃないか。
なんで、気づかないんだ。
この街以外で彼女の居そうなところ……それは。
イロハの、故郷、「月見の森」しかない!
逆に、それ以外にあるのか?
俺は顔を上げ、急ぎ足で、イロハがいるであろう場所へと、向かい始めた。
居てくれよ……イロハ
今度は、ちゃんと、ついて行くから。
……なんだろう。
焦げた匂いがする。
肌をちりちりと照らすような熱さと、鼓膜を突き刺す叫びが聞こえる。
懐かしいような、苛立つような、はたまた、涙がこぼれ落ちる程に痛い。
私は何をしていたっけ?
視界がぼやけて、今さっきまで、誰かと対話していたはずなのに。
何をしていたんだっけ?
真っ暗闇の空間で、徐々に明かりが灯されていく。
ひとつ、ふたつ、ほうほうと炎が燃えたぎるような、そんな音が、聞こえてくる。
それはどんどん力を増して、叫び声も増して、焦げた匂いも増して、……視界が鮮明になる。
赤く舞う火の粉、形を失っていく木々……。
それを冷淡に見下ろす、月。
……月、……夜。
炎。……木々、叫び声。
……森、故郷、曖昧な、記憶?
誰の?この残酷な記憶は、誰のもの?
『あんたのだよ。』
私の?
突如脳内に語りかけてくる、身近で、悪意が聞いて取れる、ニタリとした声質。
そんなわけは、無いでしょう。
『そんな訳があるから、こうやって今、見ているの』
……何を?
『思い出すべきもの、を。』
ひゅうぅ……と、乾いたそよ風が吹いた瞬間。
私は、目を見開いて、”思い出すべきもの”を、思い出した。
あぁ……そうか。
そう、だったな。
あの日の夜は、わたしと、お母様の別れのとき。
静寂の象徴の月と、お母様は、紙一重だった。
あの日のお母様の瞳は、一切揺れていなかった。
命を捧げ、この世を守り抜くという、覚悟が滲んでいた。
そして、まだ未熟者な私に、こう語りかけるのだ。
「イロハ。あなたは“静寂を継ぐ者”……しかし、もしかすれば“運命を断つ者”となるかもしれない。
それでも私は託す。未来を。魂の行き場を。そして――あなた自身の選択を」
剣を、お母様の意志を、受け取った時、お母様の”死”がすぐ側にあるんだと、わたしは無感情の裏で思っていた。
引き止めるべきか、もう一生会えないなんて、考えるだけで恐ろしい。
できれば、一緒に生きていきたい。
なんて、おぞましい。
涙なんて、流すもんか。感情を無にしろ。
反芻しながら、わたしは重たい剣を受け取った。
瞬間、お母様の姿がポロポロと、光となって消えていく。
お母様が、いなくなる。
「大丈夫、私はいつでも、あなたのそばに……」
最後に、母は、微笑んでいた。
その光は夜の森に淡く残り、月光と共鳴した。
お母様の暖かさも、全部。この瞬間に、世界に忘れ去られたのだ。
「……大丈夫、わたしは、大丈夫。」
自分に言い聞かせた。
まだ、ひとりぼっちになったってわけじゃないもの。
フユリもいる、お母様だって、姿が見えなくても、傍に……。
冷たい剣を、ギュッと、抱きしめた。
温かくない。でも、きっと見守ってはくれているのでしょう?
そう、もう居ない人に、問いかけた。
「……行かないと。」
その時。幕を開ける。
……地獄が。
耳を、爆音が不意に攻撃してきたのだ。
ドバアァン!
咄嗟に目を閉じ、手に力を込めた。地面が揺れ、地震のように脅かす。
何が、起きているの?
経験したことのない衝撃音が去ると、
「いやあぁーーっ!」
今度は人の叫び声が聞こえる。
今にも途絶えそうな、必死な声が、喉の奥から張り裂けそうな程に出ているみたい。
バチバチ……バチバチ。
何かが焼けるような音が聞こえて、ようやく、私は目を開け、窓のほうへと駆け寄った。
「……え?」
息を、止めてしまった。
窓の外は、「焦熱地獄」だった。
炎は、好き嫌いなんてしない。無心に、全てを貪り奪っていく。
その事実を、わたしは目の前で知らされた。
人が、木が、森が。
炎に貪り喰われている。
待って、待って……?
何が起きているの?
「……あ……あぁ……っ 」
「助けて」「死にたくない」「あの子はどこ?」
「どうしてこんな目に」……残酷な現実から逃げ惑う人々は、そうやって泣き喚きながら、だんだんと消えていく。
情けない。わたしは窓の外からそれを眺めるだけ。
動き始めたのは、それから十数秒たった、とある光景を見た時だ。
「……あれ、もしかして……。」
わたしが見たのは、黒い影だった。人の形を真似たようで、でも人とは程遠い、顔も見えないし、意思もないよう。
ただ長い指先で、人を追いかけている。
虚霊だ。
そして、その、追いかけられている人に、見覚えがあった。
小さな背丈で、長く低いツインテール。
その髪に添えられた髪飾りは、あの子しか持っていないものだ。
「フユリ……!!」
フユリが、虚霊から逃げている。
フユリのお母さんは?お父さんは?無事なの?
分からない。でも今は!
わたしは剣をかまえると、一目散にフユリの元へと、部屋を飛び出した。
「早く……早く行かないと、フユリが……」
足を早く動かそうとしても、なかなか思うように動いてくれない。
まだ当時のわたしにとっては、剣は重たすぎた。
じり……じり……と剣を引きずりながら、外に出た。
外の景色は、窓越しに見たものとは比べものにならなかった。
倒れ伏す人影。
動かない手。
何かを呼ぶ声だけが、あちこちから聞こえる。
顔に酷い火傷を負った少年が、地面に縋りつきながら、
「……おかあ、さん……」
と、掠れた声で呟いていた。
それだけで、胸が締めつけられる。
見ていられないのに、目を逸らすこともできない。
「……ぅ……ぁ……!」
何よりきついのは、虚霊が、喰うのだ、人を、生きた状態で。
骨の軋む音、苦しみ、もがく声が、生々しくて、心地悪くて、何も出来ないまま死んでいく。
ちりちりとした炎に照らされて、わたしの頬には、冷たい汗が伝った。
「酷い……酷いわ……こんなの。 」
唾を飲み込んで、その地獄の中で、わたしはゆっくり、剣を抜いた。
初めてのこの感覚と、この景色。
重たい刃、手首が重力に押しつぶされて、軋むように痛い。
いつも使っていた木刀とは、大違いだわ。
実践もしたこともない、人を助けられたこともない、それでも今、この灼熱を救えるのはわたしだけ。
「てああぁーーっ!」
剣を振り下ろした直後、腕が痺れて、私は思わず息を呑んだ。
——怖い。
それでも、立ち止まれなかった。
まず、一体目……。
小走りでフユリを、探していく。
流れ作業のように、虚霊も斬る。
肺が焼けるように苦しい。灰色の煙を吸えば吸うほど、息の仕方がこれでいいのか、曖昧になっていく。
「げほっ……がはっ、がはっ……!」
すぅ……はぁ……と、口を抑え、涎を拭う。
ふらり、ふらり、足元が霞んで、バランスが取れなくなっていく。
森のみんなは、大体はもう、倒れている。
声をかけても、反応もないし、治癒能力を使っても、回復しない……。
「どうして、みんな目を覚まさないの……?」
当時のわたしは、気づいていなかった。
地面に転がる多くが、もう息の根を止めていることを。
ちっ、と舌を鳴らして、大きく大地を踏みしめる。
フユリ、フユリ……!
「うっ……ぅぁ……。」
それは、助けを呼ぶ声だった。
「!!」
声が聞こえる……まだ、生きてる人の声。
藁にすがるように、助けを求める声。
「……っ、どこに、いるのよ! 」
剣の柄を持ち直して、息を呑む。
耳を澄ましながら、声の方に寄っていく。
ここ……?
そこは、比較的、炎の少ない場所。
ただ、木々が倒れて、山のようになっている。
背中には、ゾクゾクとした霊的な気配。
「……たすけ……っ! 」
「……!」
振り向くと、そこには。
虚霊に飲み込まれる寸前の、少女がいた。
桜のような桃色の瞳。半透明な羽。
そして、頭につけた、世界に一つだけの、髪飾り。
「……フユリ!」
すぐに飛びついて、手を伸ばす。
「今助けるわ……だから、耐えて……!」
でも、背後にいるもう一体の虚霊が、私の助けの手を塞ぐ。
「助けさせない」、と。
少しずつ、距離を離されてしまう。
黒い魔の手が、私を、命から遠ざける。
お願い……届いて……。
手が震える。視界が震える。
精一杯力を込めても、意味が無い。
フユリも、ずっと手を伸ばしていた。
必死に、生の希望を抱いて。
しかし、フユリもどんどん限界が訪れていく。
虚霊に、下半身はもう見えないほどに取り込まれている。
やめて……やめて……!
その時、フユリは笑った。
全てを諦めたような、泣きそうな、優しい笑み。
「また……会おうね……イロハ、絶対、だよ……?」
フユリの指先が、かすかに震えた。
それが、最後の力だと分かってしまって——
目を閉じた。
何かが、途切れる音がした。
それが、何なのかを考える前に、
わたしの世界は、真っ暗になった。
見なかった。
見られなかった。
——見なかったことに、してしまった。
わたしは、かしゃん……と剣を地面に捨てて、しゃがみ込んだ。
「やだ、やだぁ……どうして……わたし……!こんな……月見の森は……こんなじゃないのに!」
熱い水が、頬を撫でる。
視界が、ぽろりぽろりと、歪んでいく。
ここは、 もっと優しい場所のはずなのに。みんながみんな、笑顔な場所のはずなのに……
こんなの知らない。こんなの森じゃない!
あぁ……ここがもう、森じゃないなら。
どうでもいいや……。
みんなを奪うんでしょう?この森は……虚霊は……。
なら、わたしは……
殺してやる。
虚霊も……全部、全部。
——この森も。
ねぇ、いいよね。
ここは、もう森じゃないんだもの。ただ人見下して傷つける箱庭。
なら、全部殺してあげようか。
望んでなくても、必死に抵抗したって無駄だ。
今更「願い」なんて、毛ほども興味ないわ。
「殺してやる……殺してやる……!今!」
ぶらりぶらりと、ふらつきながら、わたしは立ち上がった。
音が、逃げるように消え去った。
そして、天高く、空に剣を突き上げた。
第十七の月夜「願いを捨てた日」へ続く。