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クッキングスタジオでは、10月のスタジオ限定メニューの試食会が行われていた。未央が考えたヤンニョムチキンと、他の先生の考えたツナオニオンブレッド、カボチャプリンの3品でコンペする。
味はどれも良かったので、問題はコストと、生徒さんと話す時間が取れるか。といういつもの問題にぶちあたった。味はいいのだけれどコストや時間が取れないというので却下になるメニューは数しれない。
「ここんとこ、新規の生徒さんの数が減ってるから、大事にいきたいのよね。確かにインパクトもいるんだけど……」
きょうはいつもと緊張感がちがう。チーフの先生のさらに上、エリアマネージャーの先生が試食に参加したのだ。
エリアマネージャーの橋本あきは、38歳。美魔女という感じの長身で、ミステリアスな先生。ハスキーボイスが魅力的で、ときどき橋本の授業があると、あっという間に予約でいっぱいになる。
思ったことを包み隠さず言うタイプなので、みんなビクビクだった。未央もそのひとり。
「うーん、私は篠田さんのヤンニョムチキンがインパクトとしてはいいと思うけど、みんなはどう?」
橋本の発言にドキッとする。周りをキョロキョロしながら、新田奈緒が手を挙げた。新田は、museのコラボメニュー担当になった元読者モデルのかわいい講師。顔に似合わずハッキリ言う。
「プリンがいいと思います。冷やす間に話す時間も取れるし、ハロウィンもあるから話題としてもいい。コストも安い」
「他には? チーフはどう?」
「プリンがいちばんいいかと。時間もそれほどかかりませんし、もし生徒さんが持ち帰るにしてもハロウィンもあるので喜んでもらえると思います」
やっぱりコスト的に難しいか。インパクトは大なんだけど。
「篠田先生、何か意見ある?」
急にチーフの先生にふられて、えっ! と声が出る。
「あっと、あの……。ヤンニョムチキン、今回は揚げるのではなく、オーブンで焼くやり方にしてみました。話す時間はそこで確保できます。
コストは私の住んでいるところの商店街の肉屋さんで、まとめて買うなら安くしてくれるとのことでした」
あのあと、亮介が一緒に考えてくれた作戦だった。いま、揚げない〇〇というのがよくレシピ本でもあるからそうしてみたらと言われ、やってみたら大正解。
話す時間も取れるし、揚げるよりヘルシーで味もほぼ変わらない。コストも、亮介は一緒に商店街の肉屋さんに行って交渉してくれたのだった。
黙って聞いていた橋本が口を開く。
「そうね、ヤンニョムチキンがいちばんインパクトがあるし、その方法ならできるかもしれないわね」
ゴクリ、思わずつばをのみこんだ。
「ほかに意見のある人は?」
しーんと静まりかえって誰も何も言わなかった。
「じゃあ、ヤンニョムチキンにしましょう。チーフ、いいかしら?」
「はい、わかりました」
わぁっと拍手が起こる。いつもは言えなかった意見も、亮介のおかげでちゃんと言えた。それだけでもうれしかったのに、久しぶりに自分のレシピが通って採用された。よっしゃー!! と拳を上げたかったが、やめておいた。「篠田さん、レシピあとでメールしてくれる? 印刷頼んでおくから」
「ありがとうございます、橋本先生」
「ちょっと、こっち来てくれる?」
「はい?」
未央は橋本に休憩室に来るよう呼ばれた。
「あなた、レシピ開発部にかわってくる気はない?」
「えっ!? 私がですか?」
レシピ開発部といえば、スタジオでもトップクラスの先生がいくところ。自分がいくなんて恐れ多い。
「そんなすごいところ…」
「いままでも何度かあなたのレシピみさせてもらって、通常メニューや月別のメニューにはとてもいいなと思うものが多かったの。レシピ開発部でその力を発揮するのもいいんじゃないかと思って」
「え、あ……はい」
「チーフには話はしてあるわ。あなたの気持ち次第だから。1週間後にまたここにくる用事があるの。そのときに返事を聞かせて?」
「……わかりました」
橋本は身支度をすると帰っていった。
突然降って沸いた異動の話。
いや栄転か? 受け止めきれないまま、その日の仕事を終えてスタジオを出た。
自分の考えたレシピが全国の生徒さんに作ってもらえる。クッキングスタジオの中枢を動かす仕事だ。こんなすごいことはない。でも、私にできるのかな? 意見もろくに言えない私に……。駅のホームで電車を待ちながら、やりたい自分と、自信のない自分が出てきて、頭の中で話し合いを始めていた。