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ちょっと落ち着いて考えないと。あと1週間で決められるのかな。玲奈にも連絡してみよう。
玲奈はきょう、子どもさんが熱が出たというので仕事を休んだ。コンペにもぜひ参加して欲しかったが、これだけは仕方ない。
未央は頭から湯気が出そうになりながら電車に乗り込んだ。帰宅ラッシュ直前で、座るところはないが、それほど混み合ってはいない。
きょうは祝杯だ。亮介にヤンニョムチキンが採用されたので、よかったら家でご飯一緒に食べないかと連絡をすると、少し遅くなるが行くと返事があった。
未央は駅ビルの高級スーパーで、ちょっといいワインとステーキ肉を買い込んだ。ワクワクして顔がにやける。
「ねえねえ、あのふたり。すごいきれいだね」
「わぁ、ほんと、絵みたい。恋人同士かな。いーなー」
前に座っている女子高生が右の方をみて話している。未央もそちらを見ると目を疑った。
向こうのドアの近くに亮介と、エリアマネージャーの橋本が仲良さそうに立っていた。橋本は、亮介の腕をつかんで、ニコニコ話をしている。何度も見たが間違いない。
──えっ?
ほんと、絵になるくらいきれい。ふたりって知り合いだったのかな。
気になって、目が離せなくなった。仲良く談笑している姿が、これでもかと美しい。はたから見たら、恋人同士以外の何者でもない。
次の駅でふたりは仲良さそうに降りて行く。未央はその姿が見えなくなるまで目で追っていた。なんだ郡司くん、恋人がいたのか。確認したわけじゃないけど、たぶん……そうなんだろう。未央の目から、また汗がほとばしる。持っていたハンカチにマスカラがついて黒くなった。
キスもあんなに上手だったもんな。橋本先生、年上だし、きれいだし、教えてもらったのかな。あーあ、自分がバカみたい。奮発したステーキもワインもきょうはなしだな。
目から出る汗はなかなか止まらない。さすがにきょう亮介に会うのは無理だ。
亮介に、きょうは体調が悪くなったから、お祝いはまたにしてほしいと連絡して、スマホの電源を切った。
自転車をこぐ元気もなく、とぼとぼ引いて家に帰ってくると、大家の林がちょうど部屋からでてきたところだった。
「篠田さん、こんばんは。きょうは友人からアサリが送られてきたから、佃煮つくったのよ。よかったらもらっ──」
ぼろぼろ泣いている未央をみて、目を丸くした大家は、未央を家に招き入れた。
「大丈夫? うちでよければあがって?」
「はい、すみません……」
未央は大家にお茶を出してもらいテーブルに座った。大家の部屋は未央たちの部屋とは違い、少し広めのフローリングだ。古いけど手入れの行き届いた調度品が、センス良く並べられていて上品。
麦茶の入った青い切子のグラスに、照明が当たってきらきらと光っている。
「あなたが泣いて帰ってきたところに会ったのは2回目ね。1回目はここに引っ越してきてまだ間もない頃だった」
「すみません、甘えてしまって……」
「私も主人を亡くしてからはずっと1人だから、あなたの悲しみがわかるわ。でもきょうは、前とは違うみたいね」
年の功か、顔を見てわかるのか。未央は黙ってお茶を一口のんだ。麦茶の味まで上品。はーっと息を吐いて大家の顔を見た。
「久しぶりに失恋しました。好きな人に彼女がいたみたいで。ちょっといい感じだったんで、よけいに悲しくなってしまって……」
「そうなの。残念だったわね、でも好きな人がいるっていいことよ。楽しかった想い出まで否定しないで」
「そうですね、確かに楽しかったです」
「いいじゃない。あなたはすてきよ。自信持って」
未央はにこりと笑うと、残っていた麦茶を飲み、丁寧にあいさつをして大家の部屋を出た。涙は止まり、気分は少しだけ軽くなっていた。
亮介の自転車はまだない。
未央が部屋のドアを開けると、サクラが待ってましたとばかりに、飛びついてくる。
「サクラ、ただいま。ご飯用意するから待ってて」
カリカリと美味しそうに食べるサクラを見ながら、ひとり分のステーキを塩コショウだけでシンプルに焼いて、一口サイズに切る。それをツマミに、縁側でワインを開けた。
「ステーキうま、やっぱり高級スーパーのは違うんだな。ワインもこれは当たりだ」
ワインもひとりごとも、どんどん進む。グラスに入れたワインを一気に飲み干して、バタンと大の字で倒れる。
考えることはいっぱいあるが、いまは何も考えたくない。
ごはんを食べ終わったサクラが未央にすりよる。あんたも何か感じたの?
サクラはなでられると、ごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らして寝そべった。
「サクラ、郡司くんひどいよね。恋人がいるのになんでキスなんか……。しょせんは元に戻る練習台だったってことかな。最初からわかってたけど、悲しいよ。ほんと」
サクラはじーっと動かない。まるで話を聞いているようだ。
「これからどうしたらいい? 朝のコーヒースタンドも、もう行けないよね……」
また涙が出てくる。きょうはずっとこんな調子だろうな。明日は仕事は昼からだから、目の腫れも多少は引くだろう。
縁側から星空を見あげる。静岡よりは少ないけれど、きれい。それもだんだんにじんで見えなくなってきた。