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■第10話「左手で描いた言葉」
“伝えたかった言葉”は、いちばん遠いところに置かれていた。
ヨモギはずっと、右手では書けない手紙のことを考えていた。
父が亡くなってから、一年と少し。誰にも言えず、言われず、家の中には沈黙だけが残っていた。
ある夜、目を開けると、書斎のような場所にいた。
けれど、壁はどこにもなく、本棚だけが空中に点在している。
言葉がかすかに浮かんでは、溶けるように空中に散っていく。床は畳にも見え、川面にも見える。踏みしめているのに、立っていないような感覚。
夢なのか、記憶の裏側なのか。
それでも、ここが“言葉が失われた場所”だということだけは、なぜかわかる。
ヨモギは小柄な少年。まだ小学五年生。
髪は茶色がかったくせ毛で、前髪が少し目にかかっている。
ブルーグレーのパーカーにデニムのショートパンツ、左右違う柄のスニーカー。左利きで、物を書くときはいつも肘を大きく曲げる癖がある。
顔立ちはまだあどけないが、その瞳だけが何度も“聞けなかった言葉”を浮かべていた。
「言葉は、どこへ行ったと思いますか?」
声がした。
ふり向けば、紙と鉛筆を編んだような姿のブックレイが立っていた。
手にはインクの滲んだ便箋を重ねた本が一冊。目の奥では、書かれなかった手紙が波のように揺れている。
「あなたに足りないのは、“届かなかった言葉”です」
ブックレイが差し出したその物語には、こう書かれていた。
> 『言葉は、記憶の鉱山に埋まっている。拾いあげなければ、永遠に消えてしまう。』
「あなたはこの物語で、“もう会えない誰かの手紙”を探す役目を持ちます。見つけるのは、“あなたのために書かれた言葉”ではありません。
──“あなたが、書けなかった言葉”です」
ヨモギは小さく頷き、ページを開いた。
その瞬間、足元の床が透明になり、まるで空中に文字の鉱脈が浮かびあがる。
誰かの字。誰かの言葉。どれも、自分ではない誰かが大切にしていたもの。
でも、きっとその中に、ひとつだけ。
──あの日、自分が書きたかった言葉が、まだ残っている気がした。