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声にならない選択
週明けの朝、澪が教室に戻ってきた。
その姿を見て、僕の胸の奥が少しだけ温かくなる。
でも同時に、教室の空気が少しざわついたのを、僕は確かに感じていた。
「……ねえ、あの二人ってさ、最近ちょっと距離近くない?」
「美術部の子ってさ、ちょっと変わってるよね。なんか“狙ってる”感じ?」
そんな声が、教室の片隅でひそひそと流れ出す。
きっかけは些細なことだった。
ある昼休み。澪が持っていたスケッチブックに、男子数人が興味本位で勝手にページをめくった。
「うわ、これ翔太じゃね?」
「まじか、似てるし」
そのページには、僕の横顔を描いた鉛筆画があった。
誰にも見せるつもりのなかったものだろう。
澪は顔色を変えて、スケッチブックを奪い返した。
その日を境に、澪は“面白がられる”存在から、“狙われる”存在になっていった。
机にいたずらされたり、靴が隠されたり。
誰も直接手を出さないけど、じわじわと澪の周りから音が消えていく。
そして僕は――何もできなかった。
ただ、見ていた。
昼休み、澪が一人で食べているのを見ても。
下駄箱で彼女の靴が濡らされているのを見ても。
声をかける勇気が出なかった。
また“誰かに何か言われる”のが怖かった。
せっかく築き始めた関係を、見えない力が壊していくのを止められなかった。
「翔太くんは、あの日、ちゃんと“選んだ”と思ってたのに」
帰り道、澪は静かにそう言った。
僕は何も言い返せなかった。
「……別に、助けてって言ってないよ。でも、味方がいないのって、わかるんだよ。ちゃんと」
その日、彼女の背中はひどく小さく見えた。
立ち向かうという選択
あの夜、僕は眠れなかった。
澪の言葉が、何度も頭の中を回っていた。
「味方がいないのって、わかるんだよ」
彼女は責めていない。でも、間違いなく「傷ついている」。
そしてその一因に、何も言わなかった僕がいる。
気づかないふりをして、選ばないでいた僕が。
次の日の昼休み、僕は見た。
澪が自分の弁当を一人で広げている机に、男子数人が近づいていくのを。
「よっ、また一人かよ。一ノ瀬さ~ん、翔太くんと描いたラブスケッチは~?」
笑いながら、ひとりがスケッチブックを取ろうと手を伸ばす。
その瞬間、僕の体は勝手に動いていた。
「やめろよ、それ返せ」
教室が一瞬、静まる。
スケッチブックを奪おうとした男子――陽介が、驚いたように僕を見る。
「は?翔太、お前なに?」
「それ、澪のものだろ。返せよ」
自分でも信じられないほど、声が震えていなかった。
目の奥が熱くて、心臓はバクバクしてた。でも、後には引けなかった。
「うっわ、マジでかばってんの?お前、そんなキャラじゃねえだろ」
「うん、かばってる。……そういうキャラになりたくて、やってる」
陽介が嘲笑を浮かべたとき、クラスの一人がぽつりと言った。
「……返してやれよ。さすがにやりすぎだろ」
その一言が、空気を変えた。
陽介は気まずそうにスケッチブックを手放すと、「チッ」と舌打ちして立ち去った。
僕はそれを拾って、そっと澪に渡した。
彼女は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ目を潤ませて、「……ありがとう」と、小さくつぶやいた。
放課後。校舎の裏で、澪がぽつりと話す。
「……怖かった。ずっと、誰にも頼っちゃいけないって思ってた」
「俺も、誰かの前に立つの、ずっと怖かった」
ふたりは並んで座って、沈みかける夕日を見つめていた。
「でも翔太くん、今日……ちゃんと選んでくれたんだね」
「うん。俺が俺として、生きたくて」
その言葉に、澪が少しだけ笑った。
その笑顔は、初めて見るような、どこか安心した顔だった。
誰にも見えなかった絵
放課後、美術室。
窓から差し込む斜陽が、澪の横顔を金色に照らしていた。
翔太はその隣で、静かに座っていた。
何も言葉を交わさなくても、そこに流れる空気はやわらかかった。
「……ねえ、翔太くん。少しだけ、昔の話してもいい?」
そう言った澪の声は、どこか震えていた。
翔太は、うなずいた。
小学生の頃、澪は「絵を描くのが得意な子」として、周囲から少し浮いていた。
写生大会ではいつも一番。賞状も何枚もあった。でも、それは“友達”を意味しなかった。
「なんか、あの子すごいけど……変わってるよね」
「しゃべっても、返事がいつも静かでさ」
気づけば、廊下でヒソヒソと後ろ指をさされるようになった。
ある日、大好きだった水彩画のセットを誰かに壊された。
絵の具がめちゃくちゃにされ、スケッチブックは水浸しになった。
泣きながら先生に訴えた。
でも、先生は困ったように言った。
「一ノ瀬さん、誰がやったのかちゃんと見たの?証拠は?」
「……見てないけど、でも……!」
「みんながそういうことするって決めつけるのは、よくないことよ」
その日からだった。澪が”人に期待しなくなった”のは。
「それからずっと、“誰かに頼る”ってことが怖くなったんだ」
そう言って、澪は自分の手を見つめていた。
「誰かに近づくと、また傷つく気がして。だから、絵だけ描いていればいいって、自分に言い聞かせてきた」
翔太は、何も言えなかった。
でも、心の中で、強く何かが締めつけられていた。
「でもさ、翔太くんが“私を選んだ”とき、本当にうれしかった。……怖かったけど、うれしかった」
静かに、翔太は言った。
「俺も、似てるよ。ずっと、誰かに合わせてばっかりで……だから、澪が言ってくれたこと、すごく刺さった」
澪は微笑んだ。でも、その目は赤く滲んでいた。
「もう、ひとりに戻るのは、やだな……」
その言葉に、翔太はゆっくりと彼女の手を取った。
「俺がいるよ。……今度は、俺が君を選ぶ」
二人の手のひらが重なる。
その瞬間、澪の目から静かに涙がこぼれた。
それは、誰にも見せたことのない“本当の感情”だった。