テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「うう……ヒグッ……ううう……」
鏡に映ったのは、葵の泣き顔だった。なるべく顔を見られないようにしてはいるが、嗚咽が漏れ、室内に響き渡る。心憂いの念を含んで。
幼馴染である僕は葵のことを長年見てきたわけだけど、思い返してみれば今日は朝から明らかに様子がおかしかった。
睡眠不足が原因でふらふらしていたとはいえ、行動も言動も。それだけじゃない。竹田さんの話を聞いて表情を曇らせ、『前払い』という形で今の状況を作るまでに至った妙な焦燥感。そして、さっきまでの笑顔からの突然の涙。
あまりにも情緒不安定だ。
「……どうしたの、葵?」
僕はなるべく平静を装いながら葵に問いかける。とはいえ、今の僕は僕でかなりキツい。葵の胸にある二つの果実。それが直接、背中に押し付けられているんだから。
生まれて初めて知った、女性の胸の感触。柔らかいとは聞いていたが、それだけではなかった。押し返されるような弾力性も感じる。葵がまだ若いからハリというものがあるからなのだろうか。相反するようにも思えるが、実際にそうなんだから仕方がない。
そして僕の背中に伝わってくる。葵の優しくて愛情に溢れる体温が。
「やだよぉ……。憂くんとずっと一緒にいたいよぉ」
「一体、本当にどうしたんだよ。僕がお前から離れるわけがないじゃ――」
言葉を遮るかのようにして、葵は頭を振りながら言葉を繋げた。
「そんなの分からないじゃん……。別れないって言っておきながら、すぐに破局した友達だっている。それに、竹ちゃんが告白してきたように、他にも憂くんのことが好きな女子だって実はいるかもしれない。告白してくるかもしれない」
「そんなもの好き、いるわけが……」
またぞろ葵に遮られたわけではない。否定しようと思ったのに、できなかったんだ。葵の言う通りだったから。
確定した未来なんて、この世にほとんど存在しない。
「付き合ってから、どんどん大きくなっていくの……グスッ……憂くのことが好きだって気持ちが。もし今、憂くんが離れていっちゃったら、私……」
否定はできないけど、それでも否定すべきだと思った。そんなこと、絶対にないと。
だけど、言わない。
言葉にするのは簡単だ。しかし、そんなことは嘘っぱちであることは僕にだって理解できる。嘘っぱちであり、そして、ただの気休めだと。
「ねえ葵? 僕達ってさ、まだ付き合い始めたばっかりじゃん。そりゃ確かに未来のことは分からないけど、でも、それでも、今からそんな弱気でどうするのさ」
「……分かってる。だけど、竹ちゃんが憂くんに告白したって聞いてからずっとそんなことばっかり考えるようになっちゃって……」
そこで葵は一度口をつぐんだ。
ほんの少しの間だったけど、僕にはそれが、まだ何も書かれていない真っ白で空白なノートのような沈黙に感じた。
「――憂くんがいなくなっちゃうのが怖いんだ、私」
そう、葵は胸中を吐露した。
そして察する。
今、何を言ったところで、その言葉はまるで意味をなさないということを。
だからこそ、葵は今、僕に胸を押し付けているんだ。言葉ではなく、行動で僕に気持ちを伝えようと。
憂慮が混ざった『誘惑』というカタチで。
そして分かった。
葵を不安にさせている原因。それは僕にあるのだということが。
「――気付かないで、ごめん」
謝るのが正解か否かは分からない。でもこれが、今の僕に言える唯一の言の葉だった。
「憂くんが謝ることじゃないよ。私が臆病なだけ」
以前から感じてはいた。葵はポジティブではあるけど、もしかして、それは弱い自分を隠すためなんじゃないかと。
だから僕は背中を向けていた葵に対して振り向いた。彼女の顔、そして目をしっかりと見つめるために。
「僕ってさ。子供の頃から口下手だし、こういう経験もないから上手いことは言えない。だからさ――」
僕は未だ涙を溢す葵の方に、両手で彼女の肩に手を置いた。
そして、そっと彼女を抱き締める。
僕の体温を預けるため。そして、葵の心を逃さないために。そっと。
それから。僕がしばし抱き締めている内に、葵の涙はいつの間にかすっと消えていった。涙が枯れ果てたわけではない。きっと、僕の気持ちが伝わったんだろう。
それに対して返事をするかのように、葵も僕のことを抱き締め返してきてくれた。
ひとつの合図として。
「なんだろう。すごく落ち着く。不思議だよね、憂くんって。いつも私を抱き締めてくれるたびに感じてたんだけどさ、何でなんだろうね? どうしてこんなに落ち着くんだろうね?」
「それは分からないかな。僕は葵じゃないからさ。でも、これだけは言えるかな。僕も葵と同じように落ち着――」
重大なことを忘れていた。
「あ……」
「あーーっ!!」
葵が水着を半分下して胸を露わにしていることを。
顔を真っ赤にし、慌てるようにして葵は両手で胸を隠した。
「――み、見た?」
「み、見てない! 見てないです!」
嘘です。それこそ嘘っぱちです。
両手を組むようにしてその果実を隠しているものの、大きさのせいで隠し切れていないし、今にも零れ落ちそうだった。
それに、僕ははっきりと目にしてしまっていた。
桜色をした、先端にある二つのそれを。
「だからちゃんと先に言っておいたんだけど……。『決して後ろを向かないでください』って」
「いやいや! 大丈夫! 見てないから! 嘘じゃないって! ほんとほんと! いやー、湯気ってすごいね。ぼんやりとしか見えないようにしっかり隠してくれるんだもん!」
「……目、すっごく泳いでるよ? それに、換気扇回してるから湯気なんかないし」
赤らめた顔のままの、葵のツッコミ。確かに湯気がどうたらこうたらって無理があるよなあ。
でも、女子のそれってあんな風になってるんだ。生で見るのなんて初めてだったから知らなかった。しかも、超至近距離からだし。
僕は再度、くるりと葵に背中を向けた。その隙に、葵は半分まで下げた水着を着用し直す。誘惑とはいっても、さすがに直で見られるのは恥ずかしいか。
「憂くん。もう出ようよ。私、なんか頭がボーッとしてきちゃった」
「あ、ああ。うん、そうだね。きっと熱さでのぼせてきてるんだよ。でも、僕は後十分くらいしたら出ることにするね」
葵の頭の上にはクエスチョンマークがぽんぽんと浮かび上がっているのが見えた。
「え? なんで十分後なの?」
「えっと……それくらいすれば大丈夫かなあって。あははっ」
僕のそれを聞いて首を傾げる葵である。
「よく分からないけど、とりあえず先に出ちゃうね」
「う、うん。そうしてくれるとありがたいなあ」
疑問符をその場に残したまま、葵はガラガラと扉を開けて浴室から出ていった。そして、安堵。
「立ち上がれないし歩けるわけがないでしょ葵さんよ……察してよ」
――結局、僕が浴室から出ることができたのは約二十分後のことであった。
葵の『アレ』が脳裏に張り付いたままだったせいで。
『第30話 葵のご褒美【5】』
終わり