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息子に電話をかけ続けた義母が諦めて、また明日来るからと家に帰ったのは湊が目を覚ます三十分ほど前。
緊張と、安心と、泣き疲れて寝てしまいそうな梨々花も一緒に連れて行ってもらった。
義母の家に泊まらせてもらえば、安心だ。
私は眠る湊のそばで実家に電話をして、湊の容態と、今後は子供たちのそばで暮らすことを伝えた。
お母さんは何か言いかけて、やめた。
電話を切ったすぐ後、柚葉からの着信に手の中のスマホが震えた。
ちらりと息子に視線を向けると、まだ穏やかな寝息を立てている。
部屋の隅で壁に向かって立った。
今日は、よく壁に向かう日だ。
「もしもし?」
『千恵?』
柚葉の声が、少し焦っているように感じたのは、気のせいか。
「どうしたの?」
『うん。えっと、ランチのお誘い?』
「ランチ?」
『うん。ほら、駅前のオムライスのお店、行こうって話してたじゃない! それに、この前の合コンのことも聞かせてほしいし』
合コンで匡と再会したのはほんのひと月前なのに、もっとずっと前に思える。
匡……。
一緒に死んでもいいと言ってくれた匡を想うと、胸が苦しい。こみあげてくる喉の奥のしょっぱさに眉をひそめ、壁にもたれるとずるずるとしゃがみこんだ。
「柚葉……」
『ん?』
「母親なんて、損な役だよね」
『え?』
「子供より大切なものなんて……持てないもの」
匡を、子供たち以上に大事に思えるなんて思ったわけじゃない。
ただ、すべてを失った私には眩しくて苦い過去が、懐かしくて、現実逃避にはちょうどよかった。
それだけだ。
どうあがいても、今回のことがなくても、きっと私は匡から離れたろう。
私の居場所は、子供たちのそばだった……。
「階段から落ちた時に気づくべきだった」
『千恵……』
「さっさと戻ってくればよかった!」
そうしていれば、匡を傷つけずに済んだ。
私も、傷つかずに済んだ。
一緒にいた時間が、触れあったぬくもりが、幸せであればあるほど、苦しい。
『ねぇ、千恵? 子供たちより大切なものはなくても、同じくらい大切なものを持ってもいいんじゃない?』
「……」
『宝物はひとつじゃなくてもいいじゃない』
「…………私には、ひとつで精いっぱいだよ」
『千恵――』
「――ママ?」
スマホ越しじゃない、細くてかすれた声にハッとして、振り返る。
真っ白な枕の上の、まだ少し青白い顔がこちらを向いている。素早く瞬きをして、湊自身も私の姿が本物かを確かめているようだ。
「ママ?」
さっきよりはっきりと、大きな声。
「湊!」
私はスマホを床に放って、ベッドに駆け寄った。
のそりと起き上がろうとする息子を抱きすくめる。
「良かった……っ!」
もう大丈夫だと何度言われても、目覚めるまで心配だった。
意識がなくなるまで苦しむほどの発作なんて、なかったから。
当たり前だ。
咳をすれば、鼻水を垂らせば、嘔吐すれば、発熱すれば、発疹が出れば、病院に連れて行った。
日曜日の当番病院の待合室で、真っ赤な顔で咳き込む湊を抱いて五時間待ったこともある。
子供は母親に任せて、スマホ片手に待合室の椅子を占領する父親に、湊が咳をするたびにうるさいと言わんばかりに睨まれながら。
嘔吐が止まらない梨々花を、汚いもののように目を細めてジロジロ見る他の母親から隠すようにして背中をさすり続けたこともある。
どんなに嫌がって泣き喚いても薬を飲ませ、異変があれば夜でも休日でも病院に走る。
それが母親だ。
そうやって守ってきた息子が、発作もほとんど起こさなくなった今頃、こんな重篤な発作を起こすだなんて。
子供の診察券とお薬手帳と一緒に、持病の説明と対処法、かかりつけ病院の場所、医師の名前は紙に書いて置いてきた。
あれを見てくれていれば、薬を切らすなんてできるはずがない。
湊の無事に安堵すると同時に、湧き上がる殺意にも似た憎悪。
「辛かったね……」
「ママ……、来て大丈夫?」
咳のし過ぎですっかりかすれた声が痛々しい。
「大丈夫って、なにが?」
「ママ、僕たちといると幸せになれないんでしょ?」
「え?」
「パパが――っ」
ひゅっと喉が鳴ったと思ったら、ゴホゴホと咳き込む。
私は湊の背中をさすり、「ゆっくり鼻で息をして」と繰り返す。
買っておいた水を一口飲ませ、もう少し眠るように言うと、湊は私をじっと見つめた。
「帰っちゃう?」
「帰らないよ。湊が起きてもここにいる」
「いいの?」
「いいの」
手をつないで、しばらく見つめ合って、それからゆっくりと目を閉じた。
それでも、手を放しがたくて、握っていた。
ヴヴッと鈍い音がして、スマホを床に放ったままだと思い出し、ようやく息子の手を布団の中にしまった。
拾い上げたスマホは、柚葉からのメッセージが届いてると知らせていた。
話の途中だったと思い出す。
私はかけ直して、今度は冷静に今の状況を説明し、ランチには行けないと謝った。
柚葉は何度も私を気遣う言葉をくれた。
柚葉は聞き上手だ。
私はつい、「クソ夫婦から子供たちを取り返してやる」と毒づき、柚葉が笑った。
それから、ようやくお腹が空いてきた。
気づけば二十時を過ぎている。
湊は点滴を受けたから、明日の朝まで食事は出ない。
目が覚めた時に私がいないと不安がるだろうか。
けれど、冷蔵庫の中には水のペットボトルが三本あるだけだ。
どうしようかと思っていたら、看護師さんが様子を見に来てくれた。
私が戻るまで湊のそばにいてほしいと頼み、急いで病院の隣のスーパーに走った。
院内のコンビニはすでに営業を終えている。
おにぎりやサンドイッチ、飲み物を適当に買い込んで部屋に戻った。
息子の寝顔を見ながらおにぎりを食べると、本当の意味で身体が緊張から解き放たれ、私はそのままソファに横になった。
目を閉じた時、予定通り匡と食事に行っていたら、私は何をリクエストしただろうなんて考えて、少しだけ寂しくなった。
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