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何も考えていなかったわけじゃないけれど、あまりに唐突だと考えるより感情が先走る。
静かな病室で、久しぶりの母子での食事を楽しんでいたところに、前触れなくドアが開かれた。殴り込みかという勢いで。
湊は私が買っておいたハムサンドを咥え、私はベッドに腰かけて湊の病院食の食パンにイチゴジャムを塗っていた。
「誰が子供に会ってもいいと言った!」
昨夜はパーティーかなにかだったのか、紀之はお気に入りの黒にシルバーの細いストライプが入ったスーツを着ている。髪は少し乱れているが、きれいに髭が剃られているところを見ると、『お泊り』だったようだ。
父親の形相に湊が咥えたサンドイッチを布団に落とした。
「湊」
「ごめんなさ――」
「――大丈夫」
落としたサンドイッチをティッシュにのせ、私は元夫に鋭い視線で見据えた。
「食事中なの。後にして」
「はぁ!? なにが――」
「――湊が! 食事中なの。出て行って」
「出ていくのはお前だろ!」
「ママ……」
私は湊の頭を抱きかかえ、片耳を胸で、片耳を手で覆った。
完全には防げなくても、小学生の息子に実の両親の言い争う声を聞かせたくなかった。
湊は昨夜から、私を『ママ』と呼ぶ。
三か月前は『お母さん』と呼んでいたのに。梨々花もだ。
これ以上、子供たちにストレスを与えたくない。
「湊を定期受診にも連れて行かず、食べられない、眠れないほど咳き込んで苦しむ湊を梨々花に任せて夫婦でお出かけ? 新しい、若い奥様はどうしたの? 一緒にパーティー?」
「湊はずっと調子が良かったんだ。お前が出て行ってから、ずっとな。お前が過保護にし過ぎたせいで、湊は薬漬けで――」
「――それを医者に言ってみなさい!」
紀之がグッと唇を結び、青筋が立つほどきつく拳を握った。湊の腕が私の背中に回され、ぎゅっと服を掴む。
大声を出しては、怯えさせてしまう。
いつも湊に促していたように、ゆっくり鼻呼吸をした。
「梨々花が泣きながら電話してきたわ。助けて、って。あなたには電話あった? 無視したの?」
「……」
黙るところを見ると、着信はなかったのだろう。
当然と言えば当然だ。
紀之は、喘息がどんなに湊を苦しめたか知らない。見ていない。
だから、入念に家の掃除をすることも、きっと他のお宅のものより桁が多いであろう布団乾燥機を買ったことも、理解できなかった。
子供たちだって、父親に助けを求めても無駄なことは分かったろう。
「私はすぐに駆け付けたわ。梨々花に救急車を呼ぶようにも言った。あなたのお母さんにも助けを求めた。やれること全部やったわ!」
もちろん、褒めてほしいわけじゃない。
ただ、わかってほしかった。
同じ『親』でありながら、なぜこうも違うのか。
ワイドショーで見た。
世の中の子供たちは、親の収入が少ないと『親ガチャに外れた』と思うらしい。
その考えでいくと、うちの子たちはきっと親ガチャに当たったのだろう。
でも、それは、幸せに当たったことにもなるのだろうか。
両親が離婚し、お金のある父親と暮らし、放置され、苦しんでも、個室に入院できるから幸せだろうか。
私と暮らしたら、きっと個室には入院させられない。でも、少なくとも喘息を悪化させて入院することにはならない。絶対に。させない。
梨々花と湊の幸せは、どこにあるのだろう……。
考えてもわかるはずない。
だって、幸せだけの人生なんてない――――。
「子供たちの親権を私に移してください」
紀之が手を上げたことはない。
もしかしたら、今日、今が初めてその瞬間になるかもしれない。
それくらいの、形相だ。
「子供たちが可哀想だと思わないのか!」
『はぁ~?』と反抗期の子供のように言い返さなかった自分を褒めてやりたい。
心の中で『お前、どの口が言ってんだ!』と毒を吐くだけにとどめる。
「お前と暮らせば、狭いアパートに引っ越しで、公立の学校に転校だ。その上、お前が働きに出れば、結局子供たちだけの時間が増える。俺は! お前を楽させるための金なんて払わないからな! 親権と一緒に財産分与まで要求しようったって、そうはいかないからな!」
「……それ、子供たちに言ったの?」
「はぁ?」と、私が堪えた悪態を、私より年上で社会的に地位もある男が平然と言った。
「離婚前、そうやって子供たちに私を選ばないように脅したの?!」
「脅す!? 事実を教えただけだ」
紀之《この男》は親ガチャに当たった。
会社経営者の家に生まれ、優しい母親と家政婦のいる暮らし。
このまま父親のもとで育つと、私の子供たちも同じような大人になってしまうのだろうか。
幸せはお金があることだと思うのだろうか。
幸せはお金では買えない、なんて貧乏人の詭弁かもしれない。
でも、今の私には、名言であり教訓だ。
グッと、きっと湊が痛いくらい強く、彼の耳を塞いだ。
「私、あなたがお金を持っているから結婚したわけじゃないわ」
「はぁ!?」
「確かに、あなたと付き合わなければ行けなかった場所や食べられなかったもの、知らなかったこと、たくさんあると思う。でも、それに釣られて結婚したわけじゃない。ちゃんと、あなたを愛してた。子供ができて嬉しかったし、浮気されて悲しかった。それでも――」
「――だからどうだって言うんだ。今更、どうでもいいことだ」
今更……か。
未練があるわけじゃない。
ただ、紀之が、私が彼と結婚した理由がお金にあると思っていたら嫌だな、と思っただけだ。
ただ、それだけだ。
私は湊の耳を塞いでいた手を放し、肩を抱いた。
おでこにキスをして、頬釣りする。
「子供たちの親権をください。財産分与も養育費もいらないから」
もう、子のぬくもりを離したりできない――。
親ガチャに外れたと思われても、毎日の中でほんの少し幸せを感じる瞬間を与えたい。
梨々花と湊がいつか、幸せはお金ばかりじゃないと子供に教えられる親になってくれたらいい。
そのためなら、どれだけだって頑張るから……!
「ママと一緒がいい」
湊が言った。
「ママと離れたくない!」
きっと、今の彼のありったけの声で、言った。
「パパなんか大っ嫌いだ!!」
そんなことを言わせたかったわけじゃないけれど、きっと本心だろう。
紀之は別に子供が嫌いなわけじゃない。
気が向いたときは遊んだし、可愛がった。
だから、少なからず入院した湊を心配したはずだし、嫌いだと言われて傷ついたろう。
実際、今の紀之は力の入った拳を解き、肩を落としている。
「私も、ママと一緒に暮らしたい」
私からはちょうど紀之で死角になっていて気づかなかったが、ドアが少し開いていた。それが、大きく開かれる。
梨々花が立っていた。
お義母さんと一緒に。
ふたりとも、泣いている。
手を取り合って部屋に入ると、後ろからもう一人現れた。
なん……で――――。
「紀之、もうやめなさい」
お義母さんが言った。
「お前には、もう無理よ」
「母さん!」
「聖菜さんはどうしたの? どうしてマンションにいなかったの?」
「聖菜は……体調が悪くて実家に――」
「――なのにお前まで出かけたの? そして、朝帰り!?」