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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
「かしこまりました、奥様」
凛の声で、そう答えた。
ええ、そばにいます。
あなたが自分で落ちる、その瞬間まで。
付け爪が、私の腕から離れた。
ローズの香りが、スリッパの音と一緒に、暗い廊下へ消えていった。
*
八月二十二日、土曜日。夜七時。
食堂のテーブルに、九人分の膳が並んだ。
上座に、絽の着物のお義母さま。
多恵子叔母さま。お義父さまの従弟のご夫婦と、お義母さまの妹さんのご夫婦。蒼真と麗奈。末席に、榊さん。
麗奈は、白いレースのワンピースを着ていた。
裾の広がった、膝下までのドレス。胸元に、大ぶりのパールのブローチ。
陽翔は、熱が下がったばかりなので、八時前に私が寝かしつけた。
「皆さまに、ご報告があります」
鯛の昆布締めのあとで、麗奈が立ち上がった。
お腹に手を当てて、親戚の顔を一人ずつ見回した。
「御影の家に、赤ちゃんが来てくれました」
拍手が起きた。
多恵子叔母さまが、扇子を口元に当てた。
「まあ、おめでとう。七夕のあとで、いいお話があってよかったわねえ、貴和子さん」
お義母さまは、白和えの小鉢に箸を伸ばしたまま、「ええ」とだけ答えた。
榊さんは、拍手をしなかった。
グラスの水を一口飲んで、麗奈のブローチのあたりを見ていた。
*
ケーキの皿が下げられたのは、八時四十分だった。
「あっ、いけない」
麗奈が、両手を胸の前で合わせた。
「お義母さまへのプレゼント、二階に置いてきちゃった。皆さん、ホールで待っててくださる? 階段の上から、お渡ししたいの」
それから、私を振り返った。
「凛さん、一緒に来て。ドレスの裾、踏んじゃいそうだから持ってて」
客たちが、ぞろぞろと玄関ホールへ出ていく。
吹き抜けのシャンデリアの下に、半円を描くように並んだ。
榊さんは、大階段の親柱の脇に立った。
一番下の段から、手を伸ばせば届く場所に。
*
二階の主寝室で、麗奈は金のリボンをかけた箱を胸に抱えた。
「行くわよ」
麗奈が先に立ち、私は後ろで、白いレースの裾を持った。
廊下を抜け、大階段の上へ。
上の段から、踊り場へ下りる。
柱時計の前を通るとき、振り子の裏で、赤い点が一度だけ灯ったのが見えた。
踊り場で、私は裾から手を離した。
「奥様。ここからは、裾が段に届きませんので」
両手を、体の脇に下ろした。
指をそろえて、エプロンの横に。
麗奈は振り返らなかった。
吹き抜けの下の客たちに、にっこりと笑いかけた。
「お義母さま、お誕生日、おめでとうございます」
一段。二段。
三段目で、麗奈の手が後ろへ伸びた。
付け爪が、私の手首をつかんだ。
強く、下へ引かれた。
私は、引かれた手首を引き返さなかった。
足を踏ん張り、上の段に体重を残した。
麗奈の体が、前へ傾いた。
自分から、跳んだ。
白いレースが、ふわりと広がった。
金のリボンの箱が、宙を舞った。
五段。
麗奈の体は、階段の半ばで転がり止まる前に、黒い袖の腕に受け止められていた。
親柱の脇から段を駆け上がってきた、榊さんの腕だった。
「――凛さんに、押された!」
榊さんの腕の中で、麗奈が叫んだ。
「赤ちゃんが! 赤ちゃんが……!」
白いドレスの腰のあたりに、赤い染みが、じわりと広がっていった。
*
ホールに、悲鳴が上がった。
蒼真が、階段を駆け上がってきた。
私の制服の胸ぐらを、両手でつかんだ。
「お前、何をした!」
背中が、手すりに押しつけられた。
酒の匂いがした。
「その手を、離せ。蒼真」
下から、低い声がした。
麗奈を床に下ろした榊さんが、階段を見上げていた。
「その人は、両手を下ろしていた。俺は、下から見ていた」
「黙れ! あんたは関係ないだろ!」
蒼真は私を突き放し、スマホを取り出した。
指が震えて、二度、番号を押し間違えた。
「警察を。それと救急車。妻が、家政婦に階段から突き落とされたんです」
麗奈が、榊さんの腕から身をよじった。
「救急車はいや。ママの知ってる先生のところに――」
「救急車を、呼びなさい」
お義母さまの声だった。
ホールの真ん中で、お義母さまだけが、一歩も動いていなかった。
扇子を閉じて、胸の前で握っていた。
「御影の跡継ぎを、町医者に診せるつもり?」
麗奈の唇から、声が消えた。
*
最初に着いたのは、パトカーだった。
降りてきた刑事は、よれたトレンチコートを腕に掛けていた。
私と目が合うと、ガムを一度だけ噛んだ。
「白樺台署の水無瀬です。……また会いましたね、家政婦さん」
麗奈は、ソファに運ばれて、泣きじゃくっていた。
凛さんに押された、と何度もくり返した。親戚たちが、遠巻きに私を見ていた。
「この女を、連れていってください」
蒼真が、私を指さした。
水無瀬さんは、何も答えずに、手帳を開いた。
私は、何も言わなかった。
押していません、とは言わなかった。言えば、家政婦と妊婦の言い合いになる。
私は、お義母さまのほうを向いた。
「大奥様」
凛の声で、言った。
「この家には、嘘を見ている目がございます」
それから、踊り場を見上げた。
柱時計が、こち、こち、と振り子を揺らしていた。
お義母さまの顔から、血の気が引いた。
扇子を握る指が、白くなった。
長い沈黙だった。
あの時計の裏を開ければ、この人は、親戚の前で、嫁を三年間盗み見ていたと認めることになる。
開けなければ、御影の跡継ぎが本当にいたのかどうか、一生わからないままになる。
お義母さまは、階段を上りはじめた。
一段ずつ。背筋をまっすぐに。
十三段目を、跨いだ。
踊り場で、ガラスの扉を開け、振り子の裏へ指を差し入れた。
小さな黒いカードを抜き取り、手のひらにのせて、下りてきた。
「貴和子さん、それ……」
多恵子叔母さまの声が、裏返った。
「嫁の躾のためよ」
お義母さまは、誰の顔も見ずに言った。
「佐伯さん。私の部屋の、仏壇の右の引き出し。奥に、画面のついた小さな機械があるわ」
*
小さな画面を、みんなが囲んだ。
踊り場から見下ろす階段を、白いドレスの女が下りていく。
その後ろに、紺の制服の女。両手は、体の脇に下ろしたまま。
三段目で、白いドレスの手が後ろへ伸びた。
制服の女の手首をつかみ、引く。
制服の女は、上の段に踏みとどまっていた。
白いドレスが、自分から前へ跳んだ。
誰も、何も言わなかった。
ソファの上で、麗奈の泣き声が止まっていた。
「……なるほど」
水無瀬さんが、手帳に何か書いた。
私は、ランドリーから持ってきた瓶を手に、麗奈の前に膝をついた。
「奥様。お召し物の染みを、落とさせていただきます」
麗奈が、腰の染みを手で隠そうとした。
その前に、私は赤い染みの上に、酸素系の漂白剤を落とした。
一滴。二滴。
泡は、立たなかった。
「血なら、泡が立つんですよ」
水無瀬さんが、身をかがめて染みの匂いを嗅いだ。
「……血のり、ですね。家政婦さん、詳しいですね」
「家政婦でございますので」
遅れて着いた救急車は、それでも麗奈を運んでいった。
お義母さまが、そうしなさいと言ったからだ。
担架の上で、麗奈は顔を両手で覆っていた。
涙で流れたマスカラが、付け爪の隙間から黒い筋になってのぞいていた。親戚たちは、誰も声をかけなかった。
蒼真が、青い顔で付き添った。
玄関を出るとき、一度だけ私を振り返った。何を見ているのか、わからない目だった。
十時半に、お義母さまの携帯が鳴った。
短い電話だった。
電話を切ったお義母さまは、ホールに残った親戚たちに向かって、はっきりと言った。
「妊娠は、していなかったそうよ。最初から」
多恵子叔母さまの扇子が、ぱちん、と閉じた。
「虚偽の届け出は、それはそれで罪になるんでね」
水無瀬さんは、手帳を閉じた。
「被害を受けたのは家政婦さんだ。どうするかは、こっちで判断します」
私は、取り下げてくださいとは言わなかった。
*
厨房で、ケーキの皿を洗っていた。
勝手口の戸が二度叩かれ、開けると、榊さんが立っていた。
「手首を、見せてください」
制服の袖をまくると、右の手首に、三日月の形の赤い痕が四つ並んでいた。
付け爪の痕だった。
榊さんは、長いあいだ、それを見下ろしていた。
それから、上着のポケットから、小さな軟膏の容器を出して、私の手のひらにのせた。
「……よく、踏みとどまった」
声が、かすかに震えていた。
*
客たちが帰ったのは、十一時を過ぎてからだった。
玄関で、最後の草履を揃え終えたとき、背中にお義母さまが立った。
お義母さまは、私の耳元に顔を寄せた。
私にだけ聞こえる声だった。
「あの時計のことは、私と、死んだ嫁しか知らないはずなのに」
コメント
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「第39話、めっちゃゾクゾクした…!凛の『家政婦でございますので』がもう完全にラスボス感。階段で踏みとどまる判断力も、漂白剤で血のり見破るところも、伏線で貼られた柱時計の使い方も全部気持ちいい。榊さんが軟膏渡すシーンでちょっとグッときた。次どうなるんだろ…続きが待ちきれない🔥」