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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
私は、最後の草履の鼻緒から、指を離さなかった。
「……毎朝、ねじを巻いておりますので」
凛の声で、答えた。
「ガラスの扉を開けると、振り子の奥に、光るものが見えます。何かは存じませんでした。ただ、時計のものではない、と」
お義母さまは、何も言わなかった。
玄関の灯りの下で、私の顔を見ていた。
それから、私の左手の手袋を見た。
「二年前から、ずっとあの位置にあるのよ」
それだけ言って、和館へ戻っていった。
足袋の音は、三枚目の板で、今夜は鳴らなかった。
二年前から。
私がこの家に家政婦として来たのは、三か月半前だ。
その前の二年間、毎朝あの時計を巻いていたのは、前の嫁だった。
お義母さまは、それを私に言ったのだ。私が何も答えられないことを、知っていて。
*
麗奈が病院から戻ったのは、夜中の一時前だった。
お義母さまは、玄関で待っていた。
「今夜から、和館の客間で寝なさい。主寝室には、入らないで」
麗奈は、何も言い返さなかった。
白いドレスの上に病院の毛布を羽織ったまま、廊下の奥へ消えていった。腰の赤い染みは、乾いて、ただの色になっていた。
蒼真は、書斎に上がったきり、下りてこなかった。
厨房で片づけをしていると、配膳リフトの竪穴から、氷の音が降りてきた。
からん。少しして、また、からん。
グラスに注ぐ音。
誰かに電話をかけて、つながらずに切る音。
それが、何度も続いた。
*
二時過ぎ、喉が渇いて目が覚めた。
焼けた喉は、夜になると乾いて張りつく。
水を飲まないと、朝、声が出ない。
半地下の階段を上り、厨房の灯りを、流しの上の小さな電球だけ点けた。
コップに水を汲み、一口飲んだ。
冷たい水が、喉の引きつれの上を、ゆっくり下りていった。
二年前から、ずっとあの位置にある。
お義母さまの声が、まだ耳の奥に残っていた。あの人は、もう半分以上、わかっている。わかっていて、まだ言わない。
それが何のためなのか、私にはわからなかった。
ぎい、と音がした。
大階段の、十三段目だった。
この家の者は、あの段を跨ぐ。
跨がずに踏むのは、急いでいるときか、酔っているときだけ。
足音が、玄関ホールを横切って、こちらへ来る。
重い、引きずるような足音だった。
厨房の入口に、蒼真が立った。
シャツのボタンが、三つ外れていた。
手に、空のグラスを提げていた。
「……まだ、起きてたのか。家政婦」
「お水を、いただいておりました。すぐに下がります」
私は、コップを流しに置いた。
蒼真の横をすり抜けて、半地下の階段へ向かおうとした。
蒼真が、一歩、横へ動いた。
道が、ふさがれた。
「お前のせいだ」
酒の匂いが、近づいた。
「お前が来てから、全部めちゃくちゃだ。母さんの茶会も。麗奈も。……あの時計も。なんで、お前があれを知ってるんだよ」
空のグラスが、配膳台の上で、がちゃんと鳴った。
「腹の子なんか、いなかった。親戚の前で、俺は笑いものだ。上場の承認は、来月なんだぞ。社長の妻が狂言だなんて」
「旦那様」
「お前、本当に何も覚えてないのか」
蒼真の声が、急に低くなった。
「あの夜。澪の車の中で。あいつは、何を言ってた。何か、言ってただろ」
九か月、この人が一番聞きたかったこと。
私をこの家の、手の届く場所に置き続けた理由。
「何も、覚えておりません」
私は、一歩下がった。
背中が、パントリーの脇の壁に当たった。
「旦那様。お休みになってください」
「うるさい」
蒼真の手が、伸びてきた。
私の左手を、つかんだ。
手首ではなかった。
指を、手袋ごと、握りつぶすようにつかんだ。
白い木綿の手袋が、蒼真の手の中でずれた。
指先から、するりと抜けた。
その下の、肌色の薄い手袋。
蒼真の指が、それを爪で引っかけて、手の甲までめくり下ろした。
素手になった私の人差し指が、オレンジ色の電球の下に出た。
第二関節の内側に、白く盛り上がった、古い傷。
蒼真の目が、そこで止まった。
*
二年前の、春だった。
この厨房で、私は夕食の支度をしていた。
三歳の陽翔が、配膳台の端から包丁の柄を引っぱった。刃が、あの子の頭の上で傾いた。
私は、刃のほうを左手でつかんだ。
血が、配膳台の上に落ちた。
陽翔は、何が起きたのかわからずに、私の顔を見上げていた。
隣にいたのは、蒼真だった。
会社から早く帰ってきて、つまみ食いをしに厨房に来ていた。
あの人は、布巾をつかんで、私の指に巻いた。
――動くな、澪。……びっくりさせんなよ。
声が、震えていた。
あのころのあの人は、私の血を見て、震える人だった。
*
「この傷……」
蒼真の声が、かすれた。
親指が、傷の上を、ゆっくりとなぞった。
二年前、布巾の上から押さえたのと、同じ場所を。
酔って赤くなった目が、私の手から、顔へ上がってきた。
切れ長の目。細い鼻筋。高い頬骨。
知らない女の顔の上を、蒼真の目が、何かを探して這い回った。
「……澪?」
名前を、呼ばれた。
この人が、私に向かってその名前を呼んだのは、九か月ぶりだった。
喉の奥から、言葉がせり上がってきた。
二人きりのときにだけ使った、昔の呼び方が。
蒼ちゃん。
唇が、その形に開きかけた。
私は、奥歯を噛みしめた。
焼けた喉の皮膚が、スカーフの下で引きつった。
「……事故のとき」
凛の声で、言った。
低く、かすれた、別人の声で。
「割れた窓のガラスで、切りました」
蒼真の目が、私の顔の上で止まった。
長い、長い一秒だった。
それから、蒼真の手から、力が抜けた。
私の指が、するりと落ちた。
蒼真は、笑った。
声を出して、笑った。
壁に片手をついて、背中を丸めて、笑い続けた。
「だよな」
笑い声の中に、湿った音がまじった。
「だよな。……あいつは、死んだんだ。俺が、骨を拾ったんだから」
蒼真の頬を、何かが伝って、顎から落ちた。
「なんで、同じとこに傷があるんだよ」
答えを待たずに、蒼真は厨房を出ていった。
空のグラスを、配膳台の上に置き去りにして。
十三段目が、また、鳴った。
私は、壁に背中をつけたまま、動けなかった。
床に落ちた白い手袋を拾おうとして、指が、言うことを聞かなかった。
陽翔を守った傷だった。
あの子の頭の上の刃を、つかんだ傷だった。
その傷が、今夜、私を殺しかけた。
やっと手袋をはめ直し、半地下の部屋に戻って、スマホを開いた。
一人で命を賭けない。
その約束のために、震える指で打った。
旦那様に、指の傷を見られました。澪、と呼ばれました。
返事は、十秒もかからなかった。
今から行く。
来ないでください。いま来たら、本当にわかってしまいます。
画面の上で、入力中の印が、点いては消えた。
長いあいだ、点いては消えた。
最後に届いたのは、一行だけだった。
ドアに鍵をかけて。朝まで、起きています。
天井近くの窓の外は、朝まで暗いままだった。
それでも私は、離れの灯りが一晩じゅう消えなかったことを、見なくても知っていた。
*
書斎に戻った御影蒼真は、氷の溶けたグラスに、もう一度ウイスキーを注いだ。
飲まずに、ノートパソコンを開いた。
検索窓に、指が勝手に文字を打っていた。
個人識別。鑑定。毛髪。
画面に、いくつもの会社の名前が並んだ。
根元のついた髪が数本あれば、二週間で結果が出る。秘密は厳守いたします。
澪のものは、麗奈が全部捨てた。
服も、靴も、櫛も。この家に、あの女の髪は一本も残っていないはずだった。
本当に、そうだろうか。
どこかに。誰かが。一本くらい。
蒼真は、暗い画面に映る自分の顔を見た。
左手首で、澪が贈った腕時計が、二時二十分を指していた。
「死んだ女の髪と、生きてる女の髪。両方あれば、わかるんだよな」
コメント
1件
お疲れさまです…今夜の第40話、心臓が痛かったです。 傷を見られて「澪?」と呼ばれた瞬間、息が止まりました。喉まで出かかった「蒼ちゃん」を飲み込んだ凛さんの強さにぞっとした。あの傷は陽翔くんを守った証なのに、今は自分を♡♡♡かける。その皮肉が本当に重くて苦しい。 蒼真が笑いながら泣くシーンも、検索窓に打つ指も、全てが壊れかけていて…次が怖いけど、それ以上に知りたいです。更新、待ってます。