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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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八月十一日の夕方、別荘の六畳で、百合絵様が私の髪を結った。
「動かないで、お義姉さま。今夜は、耳隠しにするの。千鶴お姉様みたいに」
鏡の中で、私の髪が、柔らかく耳を覆っていく。
着物は、白藤色の絽の訪問着。裾に、薄く萩が流れている。夜会のときと同じ色を、冬馬様が東京から持ってこさせていた。
帯の真ん中に、銀の活字の帯留め。鏡文字の、栞の一字。
「あたくしも行きたかったわ」
百合絵様は、櫛をくわえたまま、唇をとがらせた。
「お母様に知れたら、鎌倉ごと海に沈められるわ。だから、お義姉さま。叔父様が転ぶところを、全部覚えてきて。一つ残らず」
*
由比ヶ浜のホテルの大広間は、硝子の燭台がいくつも吊られ、昼のように明るかった。
海に向いた仏蘭西窓が、すべて開け放たれている。潮風が、楽士たちの奏でるワルツと一緒に、広間の中を巡っていた。
燕尾服の紳士たち。夏の夜会服の婦人たち。華族の当主も、財界の顔役も、避暑の客が皆集まっている。
私たちが入っていくと、話し声が、ふっと低くなった。
「久遠寺侯爵よ」
「妻殺しの」
「あれが、三人目」
囁きが、扇の陰を渡っていく。
「あら、奥様」
人垣の中から、黒い絹のドレスの人が現れた。断髪の襟足、長い真珠の首飾り、象牙の煙草ホルダー。
麗子様だった。
「妻殺しの侯爵と、鎌倉の舞踏会に。いい度胸ね」
「麗子様も、こちらに」
「夏は、いつもこのホテルよ。父がうるさくてね」
麗子様は、広間の奥へ目をやった。
窓際の卓に、白麻の背広の叔父様がいた。隣に、絽の羽織を着た、痩せぎすの男。笑うと、口の奥で金歯が光る。
「あれが、横浜の蛭間。高い利で、華族の次男坊を何人も干上がらせた男よ」
麗子様は、煙を細く吐いた。
「今夜は、何をするの。私に、手伝えることは」
「叔父様が転ぶところを、なるべく大勢の方に、見ていただきたいのです」
麗子様は、細い眉を上げて、それから、唇の端で笑った。
「それなら、私の得意よ」
*
楽士が、新しいワルツを始めた。
冬馬様が、私の前に、手を差し出した。
「踊ってくれ」
私は、その手を取った。手袋の黒い革が、白い絽の袖に触れた。
広間の真ん中へ出ると、囁きが、いっそう大きくなった。
「三人目も、崖から」
「いつまで、もつかしら」
足が、もつれそうになった。
「聞くな」
冬馬様が、私の耳もとで言った。
背に回された手に、力がこもる。体が、ぐっと引き寄せられた。
「私の足音だけ、聞いていろ」
一、二、三。一、二、三。
去年の夏、洋館の応接間で、何度も足を踏みながら稽古したワルツだった。
私は、冬馬様の靴の音に、耳を澄ませた。囁きが、遠のいていった。
くるりと回ったとき、私は、思いきり冬馬様の足を踏んだ。
「……申し訳ございません」
「痛くない」
冬馬様は、真顔のまま言った。
「君になら、何度踏まれてもいい」
曲が終わったとき、私の顔は、きっと絽の着物より赤かった。
*
拍手が止むのを待って、冬馬様は、まっすぐに窓際の卓へ歩いていった。
叔父様が、葉巻を口から離した。
「蛭間さん」
冬馬様の声は、広間のどこにでも届いた。
「叔父の借財の件、当主として、話をつけたい。証書の正本を、ここで見せてもらえるか」
蛭間の顔に、金歯の笑みが広がった。払ってもらえると思ったのだ。
「これはこれは、侯爵様。お話のわかるお方で」
蛭間は、羽織の内から、油紙の包みを出して、卓の上に広げた。
金八千円也。担保提供者、侯爵、久遠寺冬馬。朱の印。
「おい、冬馬君、こんなところで」
叔父様が腰を浮かせた。冬馬様は、そちらを見もしなかった。
冬馬様が、鹿革の袋から実印を出し、支配人に持ってこさせた白い便箋に、押した。
私は、二枚を、燭台の明かりの下に並べた。
人垣が、じりじりと寄ってくる。
「皆様。左が、たった今、侯爵が押した御実印。右が、この証書の印でございます」
私は、ルーペを、蛭間の手に渡した。
「久の字の、払いの先をご覧ください。本物には、髪の毛一筋ほどの欠けがございます。四年前に、侯爵が印を落とされたときの傷です。証書の印には、それがありません」
蛭間が、ルーペを目に当てたまま、固まった。
「朱の色も、違います。本物は練り朱肉で、艶があって、縁が切ったように鋭い。証書のは、安い朱肉で、紙に滲んでおります。押した力も、片側に寄っている。押し慣れない手で、慌てて押したのでしょう」
私は、最後に、墨の名を指で示した。
「この名は、侯爵の字ではございません。侯爵の字は、横画が右上がりで、止めで筆を押さえます。ここには、それが一つもない」
人垣の後ろで、麗子様の声が、広間じゅうに響いた。
「まあ。侯爵の御実印を偽って、お屋敷を担保に? 叔父様、それはね、詐欺と申しますのよ」
誰かが、息を呑んだ。誰かが、くすりと笑った。
蛭間が、ルーペを卓に叩きつけた。
「将臣さん。偽判とは、どういうことだ。八千円、耳を揃えて返してもらう。返せなきゃ、出るところへ出る」
「ま、待て、蛭間、これは」
叔父様の赤ら顔が、みるみる土気色に変わっていった。
周りの紳士たちが、一人、また一人と、叔父様から背を向けた。誰も、目を合わせない。
支配人が、静かに叔父様の脇へ立った。
「久遠寺様。恐れ入りますが、今夜は、お部屋のほうへ」
叔父様の手から、葉巻が落ちて、磨いた床の上を転がった。
人垣の中で、銀行の頭取だという老紳士が、隣の男に、聞こえよがしに言った。
「倶楽部の名簿から、あの名は消しておかんとな」
それが、この夜の、本当の幕切れだった。この夏の社交の輪は、詐欺を働いた者を、二度と中へは入れない。
麗子様が、人垣を抜けて私の脇へ来て、ルーペを返してくれた。
「見ものだったわ。千鶴さんにも、見せたかった」
煙草ホルダーを持つ手が、ほんの少し、震えていた。
*
叔父様は、海に面した露台の、石の腰掛けに崩れるように座っていた。
カンカン帽が、足もとに転がっている。
冬馬様が、その前に立った。私は、その半歩後ろに。
「叔父上」
冬馬様の声は、低かった。
「千鶴の死んだ夜、あなたは、別荘にいた」
冬馬様の手の中で、黒檀のステッキが、石の床をこつりと突いた。
叔父様の肩が、びくりと跳ねた。
長い沈黙のあとで、叔父様は、両手で顔を覆った。
「……七時に、行った。相場で穴を開けて、千鶴に、口を利いてくれと頼みに。断られた。何べん頼んでも、首を縦に振らねえ」
くぐもった声だった。
「九時過ぎに、電報が来た。千鶴は、玄関で読んで、顔を真っ赤にして戻ってきた。今夜は、主人が参りますから、お引き取りを、と」
私は、冬馬様の背中を見た。動かなかった。
ステッキの銀の握りを包んだ手袋だけが、ぎり、と鳴った。
千鶴さんは、嬉しくて、顔を赤くしたのだ。旦那様が、約束より早く来てくださると思って。
「俺は、帰るふりをして、崖道の分かれ道で待った。冬馬君が来たら、直に頼もうと思ってな。……十時の、少し前だった。町のほうから、背の高い男が上ってきた。月が出ていた。パナマ帽に、ステッキの握りが、銀に光った。銀の、家紋だ」
叔父様は、顔を上げた。目が、血走っていた。
「怒鳴られると思って、俺は松の陰に隠れた。男は、岬のほうへ上っていった。……翌朝、千鶴が死んだと聞いた」
「その男の顔を、見たのか」
冬馬様が訊いた。
叔父様は、首を振った。
「顔は見てねえ」
それから、震える指で、冬馬様の手の中のステッキを指さした。
「だが、あれは冬馬君のステッキだった。間違いねえ」
コメント
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第57話、読み終わりました……! 舞踏会の華やかさと、栞さんの冷静な鑑定が対照的で、すごく引き込まれました。ワルツで「何度踏まれてもいい」って、もうずるいです、冬馬様……! 最後の叔父様の証言で一気に謎が深まって、続きが気になりすぎます。優しくて強い栞さんの魅力が詰まった回でした🌙