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「おかえり」
誰もいない部屋に向かって、美咲はただ小さく呟いた。
玄関のドアを閉める音だけが、部屋に響く。
母の姿はない。今日は遅番だと言っていた。
キッチンには、コンビニの袋がひとつ置かれている。「好きなもの買ってきたから」と書かれたメモと共に。
“好きなもの”――それはいつも、美咲の好きなものではなく、母親の「選びやすいもの」だった。
靴を脱ぎ捨て、鞄をリビングの隅に放り投げる。
テレビの電源を入れると、何の意味もないバラエティ番組が笑い声を垂れ流している。
ソファに座る。膝を抱えて、じっと画面を見つめた。
だけど、何も頭に入ってこない。音だけが、鼓膜を撫でては通りすぎていく。
“ここ、誰もいないのにうるさいな”
ふいに、そう思った。
美咲はリビングの電気を消した。
静寂が戻る。その静寂にすら、ほっとしてしまう自分がいた。
――スマホが震えた。
通知は一件。優羅から。
『今日の屋上、風強かったね。髪が大変だった。』
短いけれど、どこか温かい文章。
誰かが自分を思ってくれているという、それだけで胸が少し緩んだ。
“返事しなきゃ”
そう思って、スマホを持ったまま何分も固まっていた。
打つべき言葉が浮かばない。
『今日はお母さん、また夜までいないの。部屋、静かすぎて怖いくらい。』
そう打ちかけて、消した。
『寂しいって言ったら、引かれるかも』
そう思って、やめた。
代わりに送ったのはただひとこと――
『風、気持ちよかったね』
それだけだった。
既読がすぐに付いて、「うん。また明日ね」と返ってくる。
ほんの数十文字のやりとり。それでも、美咲の胸は少しだけ温かくなった。
一方、優羅は家のキッチンに立っていた。
母親は寝室に籠もったまま、父親は今日も帰ってこない。
静かというより、無音だった。
ガスコンロに火をつけ、インスタントラーメンを作る。
湯気が立ち上る鍋の中に、ふと思い浮かぶのは美咲の顔だった。
“あの子は今、何をしているんだろう”
家の中でも、屋上のときと同じように心が繋がっている気がして、優羅はふっと微笑んだ。
誰にも言えないけれど、美咲の存在が、今の自分のすべてだった。
食事を終えて部屋に戻り、机の引き出しから例の“ポーチ”を取り出す。
カッターの重みを、手のひらで感じる。最近使っていない。それは、美咲が毎日来てくれるから。
“でも、もし美咲がいなくなったら”
その想像が、一番怖い。
“あの子が、別の誰かと仲良くなって、私を忘れてしまったら”
指先が、無意識に刃の部分をスライドさせる。
――カチッ。
その音が、なぜか心地よかった。
“私の居場所は、美咲だけ”
それを守るためなら、どんなことでもする――
そんな危うい覚悟が、静かに、しかし確実に育っていく。
そしてまた、次の日が始まる。
学校では“演技”をする日々。
教室では“孤独”を纏いながら、時計の針だけを睨み続ける。
放課後になれば、屋上でだけ“本当の自分”になれる。
それが、ふたりにとっての唯一の救いだった。
この世界に自分の居場所なんて、もういらない。
彼女さえいれば、それでいい。
彼女以外は、全員どうでもいい。
“この世界に、私たちふたりだけがいればいい”
その想いが、静かに、けれど確かに――
ふたりの中で、歪んだ形で根を張り始めていた。