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第3話 好きで人型化した訳じゃない
黒い霊獣の人型化は、少しずつ進んでいた。
前脚の爪は指へ分かれ始め、四肢で立つたび重心がずれる。面会は毎日申請され、黒い霊獣が「会う」を選んだ日にだけ行われた。
身体の変化について説明されるたび、香が乱れた。
「順調ですね。もうすぐ番の方と同じ姿で――」
男性職員が言いかけた時には、香が鋭く張り詰めた。
番へ、硬い香波が届く。
――俺は、同じになりたいとは言っていない。
「こいつは、俺と同じになることを望んでいない」
番が職員へ伝えた。
「変化そのものが怖い、ということでしょうか」
「違うと言っている」
職員に悪意はない。だが、人型化そのものを喜ばしいとする言葉へ、拒絶が繰り返されていた。
そのため、汀生が呼ばれた。
汀生は急いで問いかけず、呼吸と香波の揺れを確かめた。やがて床へ四枚の札を並べる。
痛い。怖い。嫌だ。分からない。
黒い前脚が「嫌だ」を押さえた。
「痛むことが嫌なのですか」
――違う。
「身体が変わることを、恐れている?」
香波がわずかに揺れた。怖くないわけではない。だが、それだけではなかった。
「この変化を、自分は望んでいない?」
――そうだ。
札の上へ置かれた前脚にも、力が籠もる。
汀生は記録担当へ向き直った。
「恐れているだけではありません。本人は、望んでいない方向へ身体が変わることを拒んでいます」
それから、黒い霊獣へ告げる。
「変化を止められるとは約束できません。ですが、望んでいたことにはしません」
黒い霊獣は、ゆっくり目を閉じた。
*
人型化が大きく進んだのは、二日後の夜だった。
全身を包んだ熱が引くと、寝台の上から黒い毛並みと四肢が消えていた。
代わりに現れたのは、黒髪の成人男性だった。番と大差ない背丈に、厚い肩と力強い腕を持つ身体だった。
露わな皮膚へ寝具が直接触れ、五本に分かれた指が、それぞれ別の感覚を返す。足裏は狭く、立とうとすれば重心が揺れた。
身体が弱くなったのではない。
ただ、この形での動き方を知らなかった。
職員はまず衝立を立て、簡素な衣を手の届く場所へ置いた。触れて着用を補助するか、説明だけにするかを確認する。
黒髪の男は、説明だけを選んだ。
慣れない指で何度か紐を落としながら、自分で衣を身につける。
使い方を覚えられることと、この手を欲しかったことは別だった。
*
翌日、澄明の立会いのもと、番と生活支援担当の男性職員を交え、今後の支援方針が確認された。
担当職員が、作成途中の支援計画を読み上げる。
「身体機能は安定しています。これで番の方と同じ姿になりましたし、いずれは同じ寝台での生活も――」
澄明が訂正を入れるより早く、番が遮った。
「俺たちは前から同じ巣で寝ている」
「そういう意味ではなく、人型同士なら今まで難しかったことも――」
「俺が人型で暮らしていることと、こいつが人型になりたいかは別だ」
澄明は口を挟まなかった。
番の言葉を止める必要はない。
今、聞くべきなのは、支援する側の説明ではなく、二人が以前から築いてきた関係の方だった。
黒髪の男の指が、衣の上から膝をつかんだ。
順調だ。
もうすぐ同じ姿になれる。
よかった。
何度も聞かされた言葉が、胸の内側へ重なる。
喉が震えた。
「俺は」
掠れていても、明確な人語だった。
「好きで人型化した訳じゃない」
室内が静まる。
「この脚が欲しいと言っていない。手が欲しいとも、衣を着たいとも言っていない」
男は自分の身体を見下ろした。
「こいつと同じ姿になりたいなんて、一度も言っていない。なのに、みんな、よかったと言う」
意思を示したのは、これが初めてではない。
ただ、その意思が人語の声となり、職員全員へ直接届いたのは初めてだった。
澄明が記録板を伏せる。
「喜ぶ必要はありません」
穏やかな声だった。
「人型を好きになることを、あなたの訓練目標にはしません。今の身体で安全に動き、痛みを伝え、望まない接触を拒めるよう支える。それを幸福と呼ばせるためではありません」
澄明は担当職員へ顔を向けた。
「身体の安定を喜ぶ意図で使った言葉でも、本人には人型化そのものへの祝福として届きました。受け取り方の問題にはしません。こちらの言葉を改めます」
続けて、記録を示す。
「『人型化後の番関係構築』という表現も訂正してください。二人の番関係は以前から成立しています。必要なのは、身体変化後の生活調整です」
職員は深くうなずいた。
「以前のお二人を、不完全な関係として扱う表現でした。申し訳ありません」
黒髪の男へ返答を求める者はいなかった。
*
二人だけの面会で、番はいつもの距離へ座った。
黒髪の男は、番の指と自分の指を見比べる。
『このままの方が、お前を細かく満足させてやれると思うが』
以前、巣で聞いた言葉が蘇った。
獣型になってほしいと望めば、番は説得せず姿を変えた。その記憶は消えていない。
それでも自分にも同じ形の手が生えた今、あの言葉が別の意味に聞こえた。
今の身体なら、同じことができる。
本当は番も、こちらの方が都合がいいのではないか。
番が片手を上げ、途中で止めた。
「触っていいか」
黒髪の男は、一歩退いた。
番の手がすぐに下りる。
「分かった。触れない方がいいなら、そうする」
問い詰めることも、追うこともしなかった。
番の香は変わらない。
それでも黒髪の男は、その距離を詰められなかった。
コメント
1件
うわ…めっちゃ読み応えあった…🥀 黒い霊獣が「好きで人型化した訳じゃない」って声に出せたの、すごく大事な瞬間だったよね。周りが「よかったね」って言うたびに、本人の意思が置き去りにされてる感じが切なかった。澄明さんの「喜ぶ必要はありません」って言葉、ちゃんと本人の気持ちを尊重してて、そこにほっとした。 番との距離も変わらないようで変わってて、触れようとして一歩退かれたときの番の反応が優しくてじんときた…。この関係がどうなるか、すごく気になる。更新待ってるね🖤