テラーノベル
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第1話 昨夜の話ではない
職員室の扉を閉めた途端、俺はその場で深く息を吐いた。
机に向かっていた龍清が、書類から顔を上げる。
「照遠。どうした、顔が赤いぞ」
「……げっ歯類の生活訓練で、少しな」
自分の頬に触れると、まだ熱が残っていた。
今日担当したのは、ハムスター由来の霊獣だった。人型での生活にはだいぶ慣れてきているが、身体に生じた熱を言葉へ置き換えることには、まだ苦労している。
訓練中、その香波がひどく濃くなった。
俺は呼吸を整えさせようと背を支えた。すると、縋るような熱が一気にこちらへ流れ込んできたのだ。
「危なかった。あと少しで、抱き返すところだった」
龍清の眉が、わずかに上がった。
「あの小柄な霊獣に、お前が?」
「香波の強さは、獣型の大きさに比例しない。恐怖も安堵も、好意も欲求も、飾らず真っ直ぐ渡してくる。あれを正面から受けると、こちらまで自分の感情を隠せなくなる」
あの霊獣に非はない。
自分の内側に生じたものを、まだうまく仕分けられなかっただけだ。明日からは、熱を感じた時の退避合図と自主調律を訓練に加えるつもりだった。
「教官が先に乱れていては、話にならないんだがな」
「いや。分からなくもない」
龍清が湯飲みを置いた。
「俺も昨夜、熊由来の霊獣に――」
そこで、不自然に言葉が途切れた。
龍清の指が、自分の手首をそっと包む。
何かを思い出したように瞳が揺れ、次いで、耳の先がみるみる赤くなっていった。
「昨夜?」
「……いや。以前の話だ」
「今、熊由来と言わなかったか」
「言っていない」
「俺には、はっきり聞こえたが」
「聞き違いだろう」
龍清は妙に落ち着いた手つきで湯飲みを持ち上げた。だが、中身はすでに空だった。
「コヨーテ由来の霊獣で、似た例があった」
「昨夜の熊ではなく?」
「照遠」
声は穏やかだったが、これ以上は聞くなという意思だけは明瞭だった。
おそらく昨夜、何かあったのだろう。
ただ、相手は天灯院で暮らす霊獣だ。龍清がその私事を話さないと決めたのなら、同僚の俺が面白半分に聞き出してよいことではない。
「分かった。コヨーテの話として聞こう」
「最初から、コヨーテの話だ」
耳を赤くしたまま、龍清は続けた。
「人型化したばかりで、発情状態のまま訓練室へ迷い込んできた。俺が対応しようとしたら、あっという間に押し倒されてな」
「……お前も経験者だったか」
「腕を掴まれた瞬間、こちらまで熱を持った。対応があと数秒遅れていたら、指導の範囲を越えていたと思う」
龍清は苦笑し、空の湯飲みを机へ戻した。
「人型で生じた欲求を、獣だった頃と同じ方法で伝えようとする者はいる。だからといって、欲求そのものを悪いものとして扱えば、今度は隠すことを覚えてしまう」
「止めるだけでは駄目、ということか」
「ああ。相手に必要なのは、罰じゃない。自分の熱に気づいて、人の形で伝える方法を選べるようになることだ」
そこまで言ってから、龍清は俺を見た。
「だが、受け止める側にも限界はある。危ないと思ったら、一人で何とかしようとするな」
「肝に銘じておく」
そう答えた時には、まさかその忠告を同じ日のうちに思い出すことになるとは考えていなかった。
*
夜の生活訓練棟は静かだった。
廊下の灯りは淡く、各室の扉は深い眠りを守っている。俺は見回り表へ印をつけながら、半獣型の霊獣が暮らす区画を進んだ。
壁際を通り過ぎたところで、昼間残してしまった訓練器具が、きれいに積み直されていることに気づく。
誰が片づけたのか、見当はついていた。
困っている時、決まって何も言わずに手を貸す者がいる。
「……嶺刃か」
返事はなかった。
だが、その名を口にした直後、背後に重い呼吸が落ちた。
近い。
振り返るより先に、濃い香波が首筋を撫でる。山岳地帯に生きた肉食獣の、重く乾いた香。その奥に、ひどく切迫した熱が混じっていた。
#🌀🌧️⚡️
低気圧
42
2,687
「嶺刃」
肩に大きな手が触れた。
次の瞬間、背が壁へ押し戻される。
暗がりの中で、金色の瞳が揺れていた。
獲物を狙う目ではない。
近づきたい欲求と、俺を怖がらせたくない理性。その二つに引き裂かれ、助けを求める者の目だった。
「手を離せ、嶺刃」
低く告げると、肩にかかっていた力が止まった。
やがて、大きな手がゆっくり離れていく。
龍清の言葉が脳裏を過ぎた。
危ないと思ったら、一人で何とかしようとするな。
「医務室へ行こう。俺も一緒に行く」
灯りのある方へ半歩動き、嶺刃との間に距離を作る。拒むためではない。俺も、彼も、自分の意思で立てる場所を取り戻すためだ。
「……行けば、どうなる」
「調律を受けられる。香波を整えて、眠れるようにな。お前を罰する場所じゃない」
「俺は、お前を襲いたいわけじゃない」
「分かっている。だから、今ここで止まれたんだろう」
嶺刃は拳を握り、荒い息を吐いた。
それでも俺には触れず、一歩、後ろへ下がった。
俺が歩き出すと、少し距離を空けて足音が続く。
一歩。また一歩。
医務室の灯りが見え始めた頃、背後から低い声が届いた。
「……照遠」
足が止まった。
嶺刃が俺を名で呼んだのは、初めてだった。
本来なら、教官と呼ぶべき場面だ。本人も、口にしてから気づいたらしい。金色の瞳がわずかに揺れる。
それでも、嶺刃は言い直さなかった。
俺も、咎めることができなかった。
「どうした」
振り返る。
嶺刃は苦しげに呼吸しながら、それでも俺から目を逸らさなかった。
「覚えておけ」
濃い香波の中で、その言葉だけが不思議なほど澄んでいた。
「俺は、お前を選んだ」
コメント
1件
わあ、第3話、すごく良かったです……! 龍清が「昨夜の熊」の話を慌ててごまかすところ、あの絶妙な慌て方が笑えてしまうのに、後から嶺刃のシーンで一気に空気が変わる。香波の描写が本当にリアルで、山岳の肉食獣の重く乾いた香り、その奥の切迫した熱……照遠が嶺刃に「罰する場所じゃない」と言う優しさにじんときました。最後の「俺は、お前を選んだ」の重み、次が待ち遠しいです!