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#🌀🌧️⚡️
低気圧
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第2話 名前で呼ばれただけ
「俺は、お前を選んだ」
返事を求める言い方ではなかった。
ただ、自分の中ですでに決まっていることを、俺にも覚えさせるような声だった。
照遠。
名前で呼ばれただけだ。
ただ、それだけのはずなのに、教官として立っていた場所から、一人の男として引き出されたような気がした。
「……今は、歩け」
それしか言えなかった。
嶺刃は不満を口にせず、再び俺の後ろを歩き始めた。
命じた通り距離を保ち、触れようともしない。そのことに安堵したはずなのに、胸のどこかに取り残されたような感覚が残った。
医務室までは、もう遠くない。
だが、背後の呼吸は次第に荒くなっていった。
振り返ると、嶺刃は廊下の中央で立ち止まっていた。握り締めた拳の関節が白い。獣の名残を宿す指先が、掌へ食い込んでいる。
俺との距離を守るために、すべてを内側へ押し込めているのだ。
「……無理をしなくていい」
言ってから、自分が何を言ったのか分からなくなった。
嶺刃の金色の瞳が揺れる。
「近づいていいのか」
「そういう意味じゃない」
すぐに言い直す。
「辛くなったら、声をかけろ。お前が自分で歩き出せるまで、俺はここで待つ」
嶺刃はしばらく俺を見つめ、やがて小さく息を吐いた。握り締めていた拳が、わずかに緩む。
それから、また一歩を踏み出した。
俺も歩き出す。
距離は保たれている。理性的に考えれば、このまま医務室まで連れていけばいい。調律を受けさせ、自分で香波を扱う術を教える。それが教官の役目だ。
――なのに、一瞬、思ってしまった。
彼の発散を、手伝ってやれたら、と。
俺が触れて、この荒い息を鎮めてやれたら。彼の香波が落ち着くまで、隣に立っていられたら。
そんな考えが頭をよぎり、すぐに首を振って追い払った。
それは指導ではない。
ただの、俺自身の欲だ。
「……医務室だ。着いたぞ」
扉の向こうから、澄んだ調律香と、かすかな弦の音が流れてくる。
嶺刃は一歩踏み出し、俺の横を通り過ぎる直前で止まった。
金色の瞳だけが、こちらへ向けられる。
「教官。お前、今、何を考えてた」
低すぎる声に、背中を汗が伝った。
返答を誤れば、もう二度と元の距離には戻れない。
「……何も、考えていない」
平静を装って答えた。
だが、一瞬だけ――嶺刃へ送っていた視線が揺らいだ。
その隙を、彼は見逃さなかった。
低い笑いが、医務室の灯りの下で響く。
「嘘だな。お前の目が、そう言ってる」
嶺刃はそう言って、俺と医務室の扉の間に立った。
まだ距離はある。触れられてもいない。
だが、その身体が放つ熱と香波が、俺の足をその場へ縫い留める。
「教官は、聖人か何かだと思ってた。だが違う」
金色の瞳が細められる。
「お前は、ちゃんと欲がある。俺と同じ、肉の匂いがする」
――図星だった。
さっきの一瞬、確かに俺は、彼を発散させる方法を考えた。
許されないことだと知りながら、その熱ごと受け止めたいと思った。
息を呑む。
扉の向こうから調律の音が静かに流れてくるのに、まるで遠くの出来事のように聞こえた。
「……いいから、中へ入れ。香を整えてこい」
絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
嶺刃の香波が、さらに濃くなる。
それでも彼は、俺に触れなかった。
ただ、この距離を俺がどうするのか、待っている。
その時だった。
医務室の扉が、静かに開いた。
「……どうしたんだい。廊下まで音が揺れているよ」
白い外衣をまとった汀生が、調律用の小さな弦を手に立っていた。
その目は嶺刃を見て、それから一瞬だけ、俺を見る。
きっと、すべて分かっている。
だが汀生は、俺たちの立ち位置にも、濃く絡みかけた香にも触れなかった。
「嶺刃。香が少し乱れているね」
いつもと変わらない穏やかな声だった。
「中で調律しようか。無理に鎮めなくていい。今のお前の響きがどこにあるのか、一緒に聴いてみよう」
汀生が扉を大きく開き、道を空ける。
命令でも、救助でもない。
嶺刃自身が、どちらへ進むかを選べる誘い方だった。
嶺刃は俺を見た。
それから、自分の意思で汀生の方へ一歩を踏み出した。
扉をくぐる直前、もう一度だけ振り返る。
「さっきの言葉は、明日になっても変わらない」
俺が答えるより先に、嶺刃は医務室へ入っていった。
汀生は後に続きかけ、ふと俺の方を見る。
「照遠。ここは俺に任せてくれるか」
「……ああ。頼む」
「少し休んでいてくれ。落ち着いたら、こちらから声をかけるよ」
それだけ言って、汀生は穏やかに扉を閉めた。
問いただされなかったことに安堵しているのか。
それとも、何も言わず見透かされたことに動揺しているのか。
自分でも分からない。
一人残された廊下で、俺は嶺刃に向けていたはずの手を握り込んだ。
触れなかった指先に、まだ彼の熱が残っている気がした。
コメント
1件
「名前で呼ばれただけ」という照遠の自覚と、その一瞬で揺らいでしまう距離感が本当に繊細でした。教官としての理性と、彼の熱を受け止めたいと思う欲求の狭間で、握り込んだ指先にまだ熱が残るラスト、痺れました。汀生さんの絶妙なタイミングと空気の読み方も、この世界の空気を壊さずにいて素敵です。次が気になります。