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#ダークファンタジー
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仕事中も、阿部が見せてきた「釣りをする俺」の画像が頭から離れなかった。
誰かが俺のアカウントを乗っ取って、合成写真でもアップしているのか?
だが、同僚たちの反応を見る限り
彼らの中の「佐藤タクミ」は確かに毎週海へ通っていることになっている。
「……落ち着け。疲れてるだけだ」
自分に言い聞かせ、胸ポケットから万年筆を取り出した。
これは美咲が昇進祝いに贈ってくれたドイツ製の高級万年筆だ。
彼女との思い出が詰まった、俺の宝物の一つ。
書類にサインを書き込もうとした、その時だった。
「……あ?」
ペン先が紙に触れた瞬間、違和感が指を伝った。
重い。
重心がいつもより後ろにある。
手元をよく見ると、手に持っていたのは艶消しの黒い万年筆ではなく
使い古されて所々塗装が剥げた、安っぽい銀色の万年筆だった。
「違う……これじゃない」
慌ててデスクの引き出しをひっくり返す。
だが、どこにもあの黒い万年筆はない。
代わりに、引き出しの隅には見たこともない「魚の鱗取り」が転がっていた。
「おい、タクミ。さっきからどうしたんだよ」
隣の席の阿部が不審そうにこちらを見ている。
俺は震える手で銀色のペンを突き出した。
「これ……美咲からもらったペンじゃない。すり替わってるんだ」
「何言ってんだ? それ、お前が親父さんの形見だって大事に使ってるやつだろ。美咲さんからもらったのは、去年の誕生日に失くしたって落ち込んでたじゃないか」
心臓がドクンと跳ねた。
阿部の言葉が、俺の記憶を真っ向から否定する。
美咲のペンを失くした? 親父の形見?
親父はまだピンピンして実家で暮らしているはずだ。
「親父は死んでないだろ、何を言ってるんだお前は!」
思わず声を荒らげると、オフィスが一瞬で静まり返った。
皆が、腫れ物に触るような
正気を疑うような目で俺を見ている。
「タクミ……お前の親父さん、三年前の冬に亡くなっただろ。葬式、俺も行ったじゃないか」
阿部の声が遠くに聞こえる。
嘘だ。
先月、実家に電話して話したばかりだ。
俺は震える手でスマホを取り出し、実家の番号を呼び出した。
『……はい、佐藤でございます』
出たのは、母さんだった。
「あ、母さん? 俺だよ、タクミ。親父……親父、そこにいるよね? ちょっと代わってよ」
受話器の向こうで、長い沈黙が流れた。
『……タクミ、あなたどうしたの? お父さんは、もう三年前からあそこに…お仏壇にいるじゃない。今日は命日でもないのに、どうして……』
血の気が引いていく。
スマホを握る力が抜け、床に滑り落ちた。
俺が知っている世界が、足元からボロボロと崩れていく。
ポケットの中で、取り戻したはずの指輪が妙に熱を帯びている気がした。
何かを取り戻せば、何かが消える。
俺の持ち物が「他人の記憶が宿った物」に変わるたび
俺の中の真実が、誰かの過去に書き換えられていく。
机の上に置かれた銀色の万年筆から、黒いインクがじわりと漏れ出していた。
まるで、俺の輪郭を塗りつぶそうとする汚泥のように。