テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
真珠が消えた。
百合絵様の白い顔を見ながら、私は昨夜聞いた篠原さんの言葉を思い出していた。全部僕のせいなんだから、僕がなんとかする。
「百合絵様。篠原さんは、今どこに」
「え……学校よ。土曜だもの、朝早く出て……」
言いかけて、百合絵様の目が見開かれた。
廊下の暗がりから、低い声がした。
「篠原さんなら、夜明け前に、風呂敷包みを抱えて裏門から出ていかれました」
タキさんだった。いつからそこにいたのか、足音もしなかった。
「タキ……」
「書生さん方が金に詰まって駆け込むのは、本郷の坂下の質屋と決まっております。開くのは八時でございます」
タキさんはそれだけ言って、私の顔をじっと見た。
「お急ぎなさいまし、奥様」
*
本郷の坂の下に着いたのは、八時を少し回った頃だった。
古びた土蔵造りの店先に、紺の暖簾が下がっている。白く抜いた「質」の一字。
その前に、絣の着物に袴の若い男が、風呂敷包みを抱えて立ち尽くしていた。
暖簾に手をかけては下ろし、また手をかけては下ろす。夜明けから、ずっとそうしていたのかもしれない。
「誠さん!」
百合絵様が駆け寄る。篠原さんは、幽霊でも見たような顔で振り返った。
「百合絵さん。どうして……奥様まで」
「篠原さん。その真珠を質に入れて、百円を作るおつもりでしたね」
篠原さんは、眼鏡の奥で目を伏せた。
「僕の不始末です。僕が手紙を、あんな所に置いておいたから。百合絵さんの大事なものを、危ない目に遭わせるくらいなら、いっそ僕が払ってしまえば」
「お金を払えば、二十一日にはまた次の手紙が来ます」
私は言った。
「次は二百円。その次は、百合絵様ご自身を。払えば払うほど、あの人は百合絵様を自分の財布だと思うようになります」
篠原さんの喉が、ごくりと鳴った。
百合絵様が、篠原さんの手から風呂敷包みを取った。
包みをほどくと、天鵞絨の箱。蓋を開けると、白い粒が朝の光にとろりと光った。
「ばか。誠さんの、ばか」
百合絵様は箱を抱えて、篠原さんの胸を拳で一つ叩いた。それから、その胸に額を押しつけた。
篠原さんは、おずおずと百合絵様の肩に手を置いた。
私は、そっと目を逸らした。
「篠原さん。今日の五時に、十二階の上へ一緒にいらしてください。百合絵様の隣に」
篠原さんは、百合絵様の頭越しに私を見て、深く頷いた。
*
午後五時。
朝の薄曇りは、いつの間にか晴れていた。
凌雲閣の十二階は、四方の窓を開け放った展望の間になっていた。
木の床が、歩くたびにぎしりと鳴る。西の窓から、傾きかけた日が斜めに射し込んで、床に長い光の帯を落としていた。
見物の客が十人ほど。窓の柵にもたれて、遠くの富士の影を指さしている。
その中に、鳥打帽や縞の着物の男たちが四、五人、壁際にたむろしていた。誰かを待つように、にやにやと階段の口を見ている。
射的屋の二階の、隆之様の仲間だろう。
隅の長椅子には、鼻眼鏡のご主人が、素知らぬ顔で腰かけていた。
侯爵様の姿は、見えなかった。
けれど、私は探さなかった。後ろにいる、と言った人だ。
階段を上がってくる、軽い口笛が聞こえた。
「やあやあ、百合絵ちゃん。こんな高い所まで、ご苦労さま」
派手な縞の背広に、カンカン帽。隆之様だった。
仲間たちが、待ってましたとばかりに口笛を吹き返す。
隆之様は帽子を振ってそれに応え、百合絵様の前に立った。私と篠原さんには、目もくれない。
「僕はね、頼まれて来ただけの使いの者さ。可愛い従妹のために、ひと肌脱いでやろうってわけだ。で、百円は?」
「お持ちしておりません」
私が言うと、隆之様はようやく私を見た。
「おや、三人目の奥様もご一緒か。お持ちでない? そりゃ困ったねえ」
隆之様は、懐から一通の手紙を出して、ひらひらと振った。
「じゃあ、こいつは伯母上のところへ行くしかないなあ。いいのかい、百合絵ちゃん。こんなことが書いてある手紙だよ」
隆之様が、わざと大きな声で読み上げようとする。
仲間たちが、どっと笑った。見物の客が、何事かと振り返る。
百合絵様の肩が、びくりと跳ねた。
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
46,527
159
「その手紙は、百合絵様が書いたものではありません」
私は一歩、前に出た。
笑い声が、少しだけ静まった。
*
私は帯から、一通の手紙を出した。一通目の恐喝状に、見本だとでも言うように添えてあった、あの恋文だ。隆之様が振っているものと、同じ筆つきをしている。
「皆さん、こちらへ。日の当たる窓辺へ」
西の窓の、光の帯の中に立つ。紙を持ち上げ、射し込む日にほとんど平らになるまで傾けた。
「墨の線の下を、ご覧ください」
仲間の一人が、面白半分に覗き込んだ。それから、おや、という顔をした。
西日が、紙の表面を舐めるように走る。墨の線の下に、銀色の細い溝が、くっきりと浮かんでいた。
「鉛筆の跡です。本物の手紙から字を一つずつ拾って、鉛筆で写し、その上を筆でなぞった。だから形は似ていても、止めのところで墨が溜まっている。これは百合絵様の字ではなく、百合絵様の字の、写しです」
見物の客までが、首を伸ばして覗き込んできた。
次に、二通の恐喝状を並べた。
「こちらは、百合絵様のもとに届いた、百円を寄越せという手紙です。邦文タイプで打ってあります。この『大奥様』の『様』だけ、ほかの字より太くて、払いが丸い。折れた活字を、別の活字で差し替えた機械の癖です」
それから、松葉堂で打ってもらった「母上様」を並べる。
「浅草の区役所裏の代書屋、松葉堂さんの機械で打っていただいたものです。『様』の顔が、同じです」
「松葉堂のご主人」
声をかけると、長椅子の老人がゆっくり立ち上がった。
仲間たちが、ざわついた。この界隈で、顔の知れた人なのだろう。
ご主人は、鼻眼鏡をずり上げて、隆之様の顔をまじまじと見た。
「ああ。この若様だ。間違いねえ」
しわがれた声が、展望の間に響いた。
「わしの機械を二円で借りて、自分で打っていった。人の字を真似て書いてくれとも言った。断ったら、うちの机で半日、鉛筆で何やら写してたよ。その右手の、金の指輪でね。レバーにかちかち当てやがって」
全員の目が、隆之様の右手に集まった。
薬指の、金の印台指輪。
隆之様は、さっと手を背中に回した。
「おい、隆之」
仲間の一人が、鳥打帽を押し上げた。
「華族の娘から金をせしめるってのは、手前の従妹を強請るってことか。しかも手紙は手前で書いて、手前で取り立てか」
「頼まれた使いの者、が聞いて呆れらあ」
別の男が吐き捨てる。
「俺たちに借りた金、こんなしみったれた手で返す気だったのかよ」
笑い声が起きた。さっきとは違う、冷たい笑いだった。見物の客たちも、ひそひそと囁き合っている。
隆之様の顔が、赤から白へ、白から土気色へ変わっていった。
「違う、こいつは……この女が、でっち上げを……」
誰も、聞いていなかった。
隆之様の目が、私を捉えた。
その目から、軽薄な笑いが剥がれ落ちていた。
「この、三人目が……!」
隆之様が、私に掴みかかった。
帯の紙をむしり取ろうと、右手が伸びる。金の指輪が、西日にぎらりと光った。
私は身を引こうとした。間に合わない。
その手首を、後ろから、黒い革の手袋が掴んだ。
ぎり、と骨の鳴るような音がした。隆之様の腕が背中のほうへ捻り上げられ、悲鳴とともに膝が床に落ちる。
私の後ろに、背の高い黒い影が立っていた。
いつから、そこにいたのだろう。見物の客に紛れて、ずっと。
侯爵様は、隆之様の手首を捻り上げたまま、低く言った。
「私の妻と妹に、二度と近づくな」
コメント
1件
第19話、めっちゃ良かった!! 質屋の前で篠原さんが風呂敷包み握りしめて立ち尽くしてるところから、もうグッときたわ。「ばか」って百合絵様が叩くシーン、甘酸っぱすぎるだろ…。 そして展望台での隆之様への反撃、完全に溜飲下がった。恋文の鉛筆跡とタイプライターの活字の癖、二つの証拠でガッツリ詰める流れ、推理小説として解像度高い!! 松葉堂のご主人が証人で出てくる展開も熱い。 最後の侯爵様の「私の妻と妹に、二度と近づくな」、最高の〆でした。三人目の奥様、こういう動き方するのね…惚れるわ🔥 次話も楽しみにしてます!