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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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隆之様の膝が、木の床に打ちつけられた。
「い、痛え……! 冬馬兄さん、離してくれよ、冗談だよ、冗談」
侯爵様は、手を緩めなかった。
「冗談で、妹を強請るのか」
低い声だった。怒鳴ってもいないのに、展望の間の誰もが口をつぐんだ。
仲間の男たちが、じりじりと後ずさる。見物の客は、窓の柵際に固まって息を詰めていた。
「恋文を出せ。全部だ」
隆之様は、捻り上げられていない左手で、震えながら懐を探った。紐で括った封筒の束が、床に落ちる。
篠原さんが、黙ってそれを拾い上げた。宛名を一通ずつ確かめ、数を数える。
「……全部、あります」
篠原さんは束を百合絵様の手に渡した。百合絵様は、それを真珠の箱と一緒に胸に抱きしめた。
侯爵様が、ようやく手を離した。
隆之様は手首を押さえて床に転がり、仲間たちのほうへ這うようにして顔を上げた。
「なあ、おい。おまえら、見てただけだよな。俺は、ただ……」
「知らねえな」
鳥打帽の男が、ぷいと背を向けた。
「借りた金は、月末までに耳を揃えて返しな。返せなきゃ、浅草で二度と顔を見せるんじゃねえ」
男たちは、ぞろぞろと階段を下りていった。誰も振り返らなかった。
見物の客たちの囁き声だけが、隆之様の上に降りそそいでいた。
*
その夜、将臣叔父様が屋敷に呼びつけられた。
洋館の応接間に、侯爵様と叔父様、それから真柴さん。私は、侯爵様に言われて隣に座っていた。
叔父様は、いつもの酒臭い大声を出さなかった。侯爵様が机の上に並べた紙を、赤ら顔を青くして見下ろしている。
「叔父上。隆之を、東京に置いておくわけにはいきません」
「冬馬君よ、そいつはあんまり……」
「警察に届けてもいい。華族の家の者が、従妹を強請った。新聞がどう書くか、叔父上のほうがよくご存じでしょう」
叔父様は、ぐっと詰まった。
真柴さんが、静かに口を開いた。
「将臣様。大阪に、私の存じ寄りの商家がございます。若様を見習いとしてお預かりいただけるよう、私から話をつけましょう。汽車の切符も、明朝のものを手配いたします」
叔父様は、しばらく唸っていた。それから、山高帽を握りつぶすように掴んで立ち上がった。
「……勝手にしやがれ」
隆之様は翌朝の汽車で、大阪へ発った。
見送ったのは、真柴さんだけだったという。
*
その日の昼過ぎ、侯爵様は書生部屋に篠原さんを呼んだ。
私は、百合絵様と一緒に廊下で待っていた。百合絵様は私の袖をきつく握って、障子の向こうの物音に耳を澄ましている。
私は昨夜のうちに、侯爵様に全部話していたことを百合絵様に打ち明けていた。百合絵様は、ひどい、と一度だけ言って、それから黙って私の肩に頭を載せた。
障子が開いて、篠原さんが出てきた。
顔が真っ赤だった。眼鏡が、少し曇っている。
「篠原さん、お兄様は……」
篠原さんは、何か言おうとして、言葉にならずに頭を下げた。
その後ろから、侯爵様が出てきた。百合絵様を見て、それから篠原さんの背中を見る。
「妹を泣かせたら、許さない」
それだけ言って、侯爵様は渡り廊下のほうへ歩いていった。
百合絵様は、ぽかんと口を開けていた。
「……今の、お許しが出たってこと?」
「たぶん」
「お兄様、知ってたの?」
「去年の暮れから、と仰っていました」
百合絵様の顔が、みるみる赤くなった。それから、篠原さんの腕をばしんと叩いた。篠原さんは、叩かれながら笑っていた。
*
夕方、侯爵様は自動車を出させた。
浅草の松葉堂のご主人に、礼を言いに行くのだという。私と百合絵様も乗せられた。
路地の奥の格子戸の前に黒塗りの自動車が止まると、近所の窓という窓が開いた。
侯爵様が帽子を取って店に入ると、鼻眼鏡のご主人は煙管を取り落とした。
「妻と妹が、世話になった」
侯爵様が頭を下げる。ご主人は、侯爵様と私の顔を何度も見比べた。
「……娘さん。あんた、侯爵様の奥方だったのかい」
「黙っていて、申し訳ありませんでした」
ご主人は、しばらく口をぱくぱくさせていた。それから、ぶはっと噴き出した。
「こいつは参った。活版屋の娘の目に、侯爵様の腕っぷしか。あの若様も、相手が悪かったねえ」
侯爵様が差し出した包みを、ご主人は「礼ならもう貰った」と言って、なかなか受け取らなかった。
店を出て、浅草の停留所の前まで来ると、侯爵様は運転手に言った。
「先に帰れ」
運転手が、目を白黒させる。
侯爵様は、私と百合絵様を振り返った。
「市電で帰る」
チンチン、と鐘が鳴った。
夕方の市電は混んでいた。勤め帰りの男たち、買い物籠を提げたおかみさん、学生。
その中に、黒い三つ揃いに黒い手袋の背の高い紳士が乗り込んできたのだから、車内がざわめかないはずがなかった。
「おい、あれ……」
「華族様じゃねえのか」
侯爵様は、周りの目などまるで気にしない顔で、吊り革に手を伸ばした。背が高いので、吊り革の輪が頭の横に来てしまう。
「旦那様、電車賃を」
車掌さんが来て、侯爵様が懐を探る。財布を出しかけて、ほんの一瞬、困ったように手が止まった。
細かいお金を、持っていないのだ。
私は帯の間から、黒い革の蝦蟇口を出した。
「三人分、お願いします」
白銅貨を払うと、侯爵様が横目で私の蝦蟇口を見た。
「……まだ、余っていたのか」
「余ったら持っていればいいと、仰いましたので」
侯爵様は、何も言わずに前を向いた。
市電が揺れるたびに、吊り革を持っていない侯爵様の左手が、私の背中を支えた。手袋越しに、てのひらの大きさがわかる。
私は窓の外の夕焼けを見るふりをした。頬が熱いのは、西日のせいだと思うことにした。
隣で吊り革にぶら下がっていた百合絵様が、くすっと笑った。
「お兄様が市電に乗ってるの、初めて見たわ」
「乗ったことはある。英国で」
「英国は数に入らないわよ」
百合絵様は、それから少しだけ黙った。
窓硝子に映った百合絵様の顔が、夕日に赤く染まっている。
「ねえ」
百合絵様は、窓の外を見たまま言った。
「お義姉さま。今度、一緒に活動写真に行ってくださる? 今度は、ちゃんと最後まで見たいの」
お義姉さま。
お義姉さん、ではなかった。
私は百合絵様の横顔を見た。耳まで真っ赤だった。
「……はい。喜んで」
侯爵様の手が、私の背中で、ほんの少しだけ力をこめた気がした。
*
その夜、私は部屋の電灯の下で、帯の内側から雁皮紙を出した。
子持ち罫の角。左下の、小さな三角の欠け。
「この欠けを、栞なら知っている」
何度見ても、思い出せない。知っているはずなのに、記憶の手前で霧がかかる。
千鶴さんは、この紙のどこに、私の名を書くほどのものを見たのだろう。
扉が、叩かれた。
廊下側ではない。侯爵様の寝室との間の、内側の扉だった。
「起きているか」
「は、はい」
慌てて立ち上がったとき、膝の上の雁皮紙が、ひらりと床に落ちた。
鍵の回る音がして、扉が開く。
白いシャツの侯爵様が、何か言いかけて、足元に目を落とした。
雁皮紙は、電灯の光をまともに受けて、侯爵様の足元に広がっていた。
侯爵様の顔から、すうっと色が引いた。
私が拾うより早く、侯爵様は屈んで紙を取り上げた。手袋をしていない指が、細かく震えている。
灰色がかった黒い目が、子持ち罫の角と、余白の字を、何度も往復した。
「その絵を、どこで手に入れた」
声が、掠れていた。
「……それは、千鶴の字だ」
コメント
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わあ、第20話お疲れ様でした! 百合絵様が「お義姉さま」って呼んだシーン、めちゃくちゃ胸熱でした…! お兄様が市電でこっそり背中支えてるところも、西日のせいにして照れる感じも、大正ロマンのツボを突いてくる。最後の雁皮紙のシーンで空気が一変するところ、次の話が気になりすぎます! 家族の絆と謎がじわじわ解けていく感覚、たまらないですね🔥