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第5話 今日は、こっちだ
同じ巣へ戻ってから、ひと月が過ぎた。
黒髪の男は、人型の身体を使えるようになっていた。
だからといって、人型化したことを喜んではいない。
定期確認の日、澄明が告げた。
「あなたの魂相に、獣型へ続く経路が残っています」
「獣型に戻れるのか」
「任意に形態を選べる可能性があります。人型化後の魂相が安定するまで、確定できませんでした」
「訓練は必要か」
「望むなら支援します。受ける義務はありません」
澄明は記録へ目を落とす。
「これは人型から獣型への退行ではなく、現在のあなたによる形態選択として扱います」
「獣型でいる時間に制限はあるのか」
「私生活では設けません。公共区画では、それぞれの利用規定に従っていただきます」
「なら、やる」
「獣型へ戻るためですか」
「違う。選べるようになるためだ」
*
最初の形態移行は、うまくいかなかった。
以前の自分を思い出そうとするほど、人型の手足ばかりが意識に残る。
「獣型だったあなたは、過去にいるわけではありません」
立ち会った汀生が言った。
「今のあなたが、どちらを選ぶかです」
黒髪の男は床へ両手をついた。
自分の内側に残る、四肢で地を踏む感覚を選ぶ。
黒い光が全身を包んだ。
指が爪へ戻り、背骨の先へ尾が繋がる。床を踏みしめたのは、四本の太い脚だった。
大型の黒い霊獣が、そこに立っていた。
毛並みの間を空気が抜ける。
尾が動くたびに重心が整い、人型の鼻では拾えなかった無数の香が一度に流れ込んできた。
どれも知っている感覚だった。
だが、過去のものではない。
今の身体として、確かにそこにあった。
部屋の端では、番が待っている。
黒い霊獣は四肢の感覚を確かめてから、自分の意思で近づいた。
「触っていいか」
――いい。
大きな手が黒い額へ触れ、慣れた毛並みを撫でる。
――戻ったんじゃない。
「ああ」
――これも、今の俺だ。
「分かってる」
*
数日後、朝食を終えた番が言った。
「出かけるか」
「どこへ」
「決めてない」
「決めてから誘え」
「森か、水辺か、市街地」
「森」
二人は人型のまま市街地を抜けた。
獣型での通行が認められた外縁区画へ着くと、番が灰銀の霊獣へ姿を変える。
「……なぜ獣型になった」
――今日は、こっちの気分だ。
「俺のためじゃないのか」
――お前が人型で行くなら、俺だけこの姿で行く。
合わせているのでも、我慢しているのでもない。
番にとっても、獣型は自分で選ぶ姿だった。
黒髪の男を、黒い光が包む。
四本の脚が地面を踏んだ。
――なら、俺も今日はこっちだ。
二頭は同時に森へ駆け出した。
倒木を飛び越え、木々の間を並んで走る。灰銀が先へ出れば、黒が速度を上げて追い越す。肩がぶつかり、互いに押し返した。
言葉がなくても、香波で十分に通じている。
森を抜けた先の水辺で、二頭は速度を落とした。
黒い霊獣が水を跳ね上げれば、灰銀の前脚がさらに大きな水飛沫を返す。
やがて木陰へ並んで横たわった。
黒い身体へ、灰銀の背が触れる。
黒い霊獣は自分から距離を詰め、番の首筋へ額を寄せた。灰銀の鼻先も、黒い毛並みへ埋まる。
互いの香と熱を確かめながら、呼吸が静まるまで身体を重ねていた。
昔へ戻ったのではない。
二頭とも人型を知った今、自分の意思で獣型を選んでいた。
*
帰り道、人型へ戻った男が言う。
「明日は人型で出るか」
「どこへ」
「茶房。前にお前が行ったところ」
「獣型では入れないぞ」
「だから明日は人型だと言っている」
*
翌日、茶房で黒髪の男が選んだ茶は、香の割にひどく苦かった。
男は向かいにある番の茶器を取る。
「それは俺のだ」
「こっちの方が飲みやすい」
「自分のものを飲め」
「嫌だ」
そこへ、番の職場の同僚が通りかかった。
「お前……そいつが、あの時の?」
「俺の番だ」
同僚は黒髪の男を見る。
「人型になったのか」
「なった」
「そうか。これでお前らも――」
同僚は自分で言葉を止めた。
「……いや。悪い。今のは違うな」
「何がだ」
「これでようやく番らしくなった、って言いそうになった」
少し迷ってから、二人を見る。
「前から、お前らはお前らだった」
「気づくのが遅い」
黒髪の男が返すと、同僚は苦笑した。
「返す言葉もない」
同僚が去った後、黒髪の男は番の茶をもう一口飲んだ。
「あいつに、以前何を言った」
「俺たちの間に何が足りないのか、教えろと言った」
「答えたのか」
「答えられなかった」
「今も無理だろうな」
「ああ」
「帰ったら、どちらの姿でいる」
番が尋ねる。
「今日は人型のままでいい」
「明日は」
「明日、決める」
好きで人型化した訳じゃない。
その言葉は、今も変わらない。
ただ、どの姿で今日を過ごすかは、今の男自身が選んでいた。
コメント
1件
ふわっ…このエピソード、すごく好きだったなあ。 「戻る」じゃなくて「選ぶ」っていう感覚、すごく大事だよね。黒髪の男が自分の意思で獣型を選んだ瞬間、本当に息を呑んだ。番と並んで森を駆けるシーン、香波で通じ合ってるのがもう尊すぎて…🥀 同僚の「前からお前らはお前らだった」にもグッときた。二人の関係がちゃんと外からも見える形になってるのが、すごく温かいなって思います。Hp2さんの描く「選択」の積み重ね、大好きです。
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