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ゆうき
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夫のスーツは、確認書をポケットに戻してからクリーニングに出した。紙はスマホで撮ってある。悠人は、紙がなくなっていないことだけを確かめる人だ。
土曜の朝八時、ラウンジの机の上に、申込書の写しが置いてあった。
二階のラウンジは、庭を見下ろす部屋だ。一ノ瀬は窓を背にして座り、私が入っても立たなかった。
「依頼者の相手の名前」
一ノ瀬は申込書の、写真の下の欄を指で叩いた。
「君の夫だな」
「……はい」
「人事の書類は高梨紗英になっている。名札は佐倉。どちらで呼べばいい」
「佐倉で」
一ノ瀬はうなずきもしなかった。
「受けるのか」
「受けます」
「理由は」
「仕事だからです」
一ノ瀬は申込書を、私のほうへ押し戻した。
「嘘だな。だが、いい」
窓の外で、職人が脚立を立てていた。庭のミモザは三本とも、冬でも銀色の葉を落とさない。花のない季節に、その葉のあいだへ黄色い灯りを巻くのが、この式場の冬の決まりだった。
「この式場は、客の持ち込みを断る式場だと聞いた」
「はい。提携の花屋以外の花は入れません。料理も、衣装も」
「では、今回は逆だ」
一ノ瀬は机の上で指を組んだ。
「この式場の全部を使え」
私は聞き返さなかった。聞き返すと、相手は言い直す。
「庭も、会場も、人も、映像も、使えるものは全部使え。ただし、依頼者が持ち込んだものだけで式を作れ。写真も、言葉も、客も、依頼者が持ってきたものを、依頼者が望んだとおりに並べろ。式場からは何も足すな。契約書に書かれた以上のことは、客にしない」
「それが、この式場のやり方ですか」
「今日からそうだ」
一ノ瀬は窓の外に目をやった。脚立の上で、職人が最初の灯りを枝に巻きつけている。
「君が何をするつもりかは知らない。知る気もない。だが、式場の名誉を落とすことだけは許さない。落ちるなら、客が自分で持ち込んだもので落ちろ」
私は一度だけ、息を吸った。
「それで十分です」
「利益の案は来週の水曜だ。忘れるな」
「はい」
部屋を出るとき、一ノ瀬は申込書の写しを自分の引き出しに入れた。鍵をかける音が、扉の向こうで聞こえた。
階段を下りながら、私は一つだけ考えた。
サプライズの相手が、十月に下見に来ている。ひなのの言葉のどこかに、嘘か、私の知らない段取りがある。どちらでも、確かめるのは私の仕事だった。
◇
土曜は式が二件入っていた。
一件目の披露宴が終わって、二件目の新郎新婦を控え室に入れるまでの二十分、私はロビーの隅で進行表を確かめていた。
「佐倉さん、顔が白いです」
美咲が水のペットボトルを差し出した。
「大丈夫」
「大丈夫な人の顔じゃないです。すみません」
「午後は司会の立ち位置を直して。新婦のお父様が、左の耳が遠いの。乾杯の声が届くように」
「……分かりました」
美咲はペットボトルを私の手に押しつけて行った。
庭では職人が二本目の木に移っていた。銀色の葉に巻いた黄色い灯りは昼間は点かない。点けるのは、日が落ちてからだ。
私は二件目の進行表の裏に、小さく書いた。『12/12 日の入り16:30ごろ。開場17:30。門から会場まで三十歩』。
三十歩のあいだに、客は庭を撮る。撮った写真は、その夜のうちに誰かの画面に上がる。
書いたものは、まだ誰にも見せない。
◇
悠人は二十時に帰ってきた。
二十時は、五年のあいだで数えるほどしかない時刻だった。
「早かったのね」
「たまにはな」
悠人は上着を脱ぎながら、鼻歌のような息をしていた。機嫌がいい日の息だった。
「飯、ある?」
「温めるから座ってて」
悠人は椅子に座り、スマホを伏せた。伏せてから、すぐに裏返して見て、また伏せた。
「お前の式場、グランシエルに買われたんだろ」
「ええ」
「オーナー、一ノ瀬って御曹司らしいな。再建屋の。会ったか」
「会った」
「どんなやつだった」
私は鍋をかき混ぜながら考えた。朝のラウンジ。押し戻された申込書。鍵の音。
「冷たい人」
「だろうな」
悠人は笑った。
「俺はああいうのに気に入られるのが得意なんだよ。冷たいやつほど、好かれ慣れてないから落ちやすい。ピッチで会うのが楽しみだ」
「そう」
「お前は余計なこと言うなよ。飾り付けの話は、向こうは聞きたがらない」
「言わない」
悠人は満足して、テーブルの上で指を鳴らした。
「来月の話なんだけど」
「うん」
「十二日、大阪に出張が入った。ピッチの直後で、打ち上げも兼ねてさ。先方の都合でどうしても」
出張、のところで語尾が上がった。打ち上げ、のところでもう一度上がった。
私は鍋の火を止めて、振り返った。
「いってらっしゃい」
悠人の顔が、一瞬だけ止まった。
「怒らないのか」
「怒ったら、出張がなくなる?」
「……いや」
「じゃあ、いってらっしゃい」
私は笑っていた。笑うのは、仕事で覚えた。客の前で、どんな紙を見せられても笑う顔。
悠人は「助かるよ」と言って、味噌汁を一口で飲んだ。
「お前は、そういうとこがいいんだよな」
「そう」
四百十四個目を数えた。数えてから、椀を下げた。
悠人は食べ終えると仕事部屋に入り、扉を閉めた。扉の向こうで、通話の声が低く続いた。私は食器を洗い、水を止め、声が聞こえなくなるまで台所に立っていた。
◇
寝室の明かりを消してから、スマホを開いた。
申込書の備考の下に、依頼者が自分で書いた欄があるのを、私は三日間、見ないでいた。『SNS:hinano_12(映え重視なので、ぜひ見てください♡)』。
検索すると、すぐに出た。
白い服の自撮りが並んでいる。カフェ、海、ホテルのロビー。どの写真でも、ひなのは歯を見せて笑っていた。
一番上の投稿は、昨日の日付だった。
見覚えのある門が背景にあった。白い柱と、黒い鉄の扉。ミモザガーデンの門は、私が毎朝くぐる門だ。その前で、ひなのは顔の横でピースをしていた。
写真は二枚あった。二枚目は、衣装室の鏡だった。白いドレスを着たひなのが鏡に映り、その後ろで、男の手がベールの端を持ち上げている。顔は写っていない。手首に、私が三年前の誕生日に贈った時計があった。
文面を読んだ。
『来月、人生が変わる日♡ 全部、上書きする』
私は画面を消し、枕元の手帳を開いて、一行だけ書いた。
『10/20 衣装室の担当を確かめる』
コメント
1件
読ませていただきました…🤍🥀 すごく静かで、でも一つ一つの動作が全部重みを持ってる感じがしました。 「いってらっしゃい」って笑顔で言った瞬間、悠人さんの顔が一瞬止まる描写、効いてました。あれ、絶対気づいてほしいのに気づかれないもどかしさが滲んでて。それにSNSの写真と腕時計…あれは絶対、意図的に仕掛けてると思います。 佐倉さんの、計算されたように丁寧な動きの裏で、何か大きな計画が動いてる気配がして、続きが気になりすぎます…。この冷たさと熱が混ざった感じ、すごく好きです。