まだ姿の見えない何者かから離れるために鼠のレモニカはユカリのいる方向へと踏み出したが、次の足はとどめる。ユカリに近づけば焚書官の姿になってしまい、鼠を恐れる何者かに見つかってしまう可能性が高まると気がついたからだ。ではどの方向へ逃げるべきか。
その迷いが足を引っ張った。柱の陰から現れたのはやはりクオルで、この薄暗闇の中、すぐに見咎められてしまった。レモニカはユカリたちと出会う前から何度かクオルを見知ってはいるが、コドーズはできる限り二人を引き合わせないようにしていた。何度取引しても信用できない相手だったのだろう。
夕暮れに命じられて子供を脅す影のように真っ黒の長い髪が風にそよいでいる。鱗模様の紺の長衣を引き寄せて震えながらクオルは現れた。
「やあ、こんばんは。可愛らしい鼠さん。ケブシュテラ、ですよね? まさか鼠に変身できる迷子の焚書官、なんてことはないと思いますが。こんなところで出会うとは皮肉なものです。とても寒い夜ですね。今年の冬は大いに張り切っているようです。お一人です? エイカさんとベルニージュさんはどちらに?」
すぐ近くにいると分かっていて嫌な問いかけをするものだ。焚火の明かりは届いていないが、よく耳をすませばその気配は察せられる。しかしまだクオルは二人のことを見つけていないらしい。少し先に行けば焚火の明かりに気づいてしまうはずだ。レモニカ鼠は首をゆっくりと振る。
「そうですか。まあ、いいんです」クオルはレモニカの姿を見たくもない様子で、それでいて目を離したくもないために、何度も視線を向けなおす。「私、貴女にも興味があるんですよね。いや、むしろ興味の度合いとしては貴女が一番かもしれない。その変身能力、とても好奇心をくすぐられます。魔法使い的好奇心というやつです。分かります?」
鼠のレモニカは魂の込められていない人形のようにただじっとクオルを見つめて、鼻をひくひくさせながら少しずつ後ずさる。
「どうやら私のことを信用できないようですね。いや、貴女は誰も信用できないんでしょうね? その呪われた身にあっては致し方ないというものです。誰が貴女を傷つけるか知れない。だけど気に病むことはありません。人間、誰しも真に他人を信用することはありませんからね。私もそうです。他人を信用しません、基本的に。でも、だからこそ信用できる人というのがとっても大切に思えるのです。分かります? 私の言ってること」
「だからといって、わたくしは貴女やコドーズ団長のように他者を支配しようとは思いませんわ」とレモニカは突き放す。
クオルは下手な道化のようにひょうきんに驚いて見せる。
「何だ。話せるんですね、そのような姿でも。とすると、やはり呪いですか」クオルはレモニカを見つめてぶつぶつと言う。「それにしても、支配ですか。そんな大袈裟なこと、私はしませんけど。ああ、あれかな? エイカさんやベルニージュさんを助手に誘ったことを言っておられます?」
「違います。ユ、エイカさまを実験動物にすると仰ってましたわよね」レモニカは非難するように言う。「わたくしの耳が閉じているとでも思いましたか?」
「ああ、言いましたね。まあ、言葉のあやですよ。それくらい助手にしたいという意志の表明といいますか」クオルは無手を示すかのように両手を広げて見せる。「別に暴力的な手段をとっていないでしょう? 現に今だって、私はすぐに貴女をとらえることができますが、そんなことはしません。私としては貴女にもお仕事を手伝って欲しいのです。私たち似た者同士かもしれませんよ?」
「どこも似ているところなどございません」
「そうでしょうか。案外気づいていないだけかも」クオルは誰かを探すように辺りを見回す。「でも、たとえば、この土地と貴女はよく似ていますね」
「土地?」レモニカは周囲を見渡して言う。
奇妙に捻じれた岩が林立するこの土地の醜さにたとえられているのだろうか。
「名前は何と言ったかな」クオルはそうすれば思い出せるかのようにこめかみを掻く。「まだこの土地が緑に溢れていた美しい時代には本当の名前があったそうですが、私も忘れてしまいましたね。このような荒れた土地になってからは恐ろしい逸話や伝説がいくつも生まれたそうです。そして、勇ましい、あるいは向こう見ずな若者たちが何度もやってきては人々の噂する何かに挑むのです。しかし幾人もの挑戦者がやってきましたが、特に何を得るでもなく失うでもなく帰って行くのですよ。ええ、要するに何も特別な何かはないんです。ただ奇妙な岩があるだけの不毛な土地なんです。しかしこの岩のせいか、あるいはその影のせいか、この土地は人々の恐怖を見せてしまうんですね」
鼠のレモニカはクオルを睨みつけて言う。「わたくしの呪いに似ていると言いたいのですわね」
「ええ、でもそのような恐怖を取り除くことは可能でしょう。岩を破壊しつくして土地を均すとかすればいいのです。所詮はまやかしの恐怖、恐怖のまやかし」
よく知りもしないくせに呪いを解けばいいとクオルは言うのだった。レモニカは鼠の姿ながら呆れて苦笑する。
「クオルさん。貴女にそれができると仰るの? どのようにして?」
「さあ、どうでしょうね。それは調べてみないことには。でもいずれ……ん?」鼠を見下ろしていたクオルが顔を上げる。「ああ、やっぱりここにいましたね」
レモニカは振り返り、自分の不運と間抜けさに歯噛みする。焚火とは別の方向に後ずさりしていたはずが、歪んだ柱岩の隙間を縫うようにユカリとベルニージュの姿がここから見えてしまった。
ベルニージュがもう一度ユカリの髪を結うのに挑戦しているらしい。遠目にも四苦八苦しているのがよく分かる。
「ああいう風に」クオルは鼠から距離を取りつつも媚びるような猫撫で声で言う。「ただ一度でも、ただ一人でも、誰かと仲睦まじい関係になりたくはありません? 私の仕事を手伝ってくださるなら、一人の魔法使いとして、貴女の悩みを解決するために尽力しますよ」
「どちらにしても貴女の手伝いだなんてお断りですわ」
クオルは少しも気にせずに続ける。「なあに、簡単な人探しをしているんです。ただ私自身にも相手のことがよく分からなくてですね。貴女の呪いを使えばそれが手がかりになると思うんですよね。貴女の呪いが人助けになるんです。それって素晴らしいことだと思いません?」
それは素晴らしいことだとレモニカは思った。しかしやはりこの女の手助けをしたいとは思わなかった。
「わあん」と突然ユカリの泣き声が聞こえた。それも思いのほか近くからだ。気が付けばレモニカの体は焚書官になり、後ろからユカリに抱きつかれる。「ケブシュテラあ! ベルがあ!」
振り返るとユカリの髪がおかしなことになっていた。変な髪形になっているだけでなく、明らかに少し短く歪な、酷い有様になっていた。
「どうなさったのですか!? それ!?」レモニカは久々に大きな声を出した。
「ベルがまた挑戦したいって言うから、渋々させてあげたらこんなことに!」
「どうして髪を結うのに失敗して、髪が短くなるのですか!?」
「私が聞きたいよ! 何でなの!? あ!?」ようやくユカリは訪問者がいることに気づいた。「クオルさん!? 何でここに? また助手になれって言いに来たんですか? どれだけ人手不足なんですか? それともコドーズのおつかいですか?」
クオルは首を振り、答える。「どちらかといえば、今はケブシュテラの方に興味があります。彼女の、変身の力は私の仕事にも個人的な研究にも大いに役立ちそうですからね」
「ケブシュテラだって、貴女になんかついていきませんよ」とユカリは断言する。
「果たしてそうでしょうか? 私は、もちろん大切な仕事仲間として彼女の望みはできる限り叶えてさしあげますよ。お互いに助け合えるというわけです。貴女はどうですか? エイカさん」
ユカリはレモニカをぎゅっと抱きしめて引き寄せる。そのような経験をレモニカは過去に一度も思い出せなかった。冷たい風に吹かれながらも心の内から温かい気持ちになった。
「私たちはまだ大して仲がいいわけじゃないですよ。まだ、どんな関係でもない」ユカリははっきりと言う。「でもそれはこれからお互いのことを知っていって、自分たちの関係は自分たちで作っていくんだから、口出ししないで」
その言葉を受けて、ユカリにとって何者でもないレモニカは、それが故に気持ちが楽になったように感じた。
「そうですか。であれば……」
そう言ったクオルの表情か、手を後ろに回す不審な動きか、とにかくレモニカは嫌な予感がしてユカリの腕を振り払い、クオルに飛び掛かった。途端に焚書官は空中で鼠の姿へと変わり、クオルの顔に飛びついた。
クオルは可聴域を超えた悲鳴をあげて気を失い、風に吹かれた棒のように倒れてしまった。
「そういうことができるだろうとは思っていたけど、思いのほか上手くいったね」とユカリは焚書官の姿に戻ったレモニカの頭を撫でる。
「わたくし、初めて変身の力を悪用してしまいました」
落ち込むレモニカの頭をユカリはさらに撫でさする。
「今のが悪用とされるかどうかは意見の分かれるところだよ。ベルだったらこう言うね。よくやった、って」
「ユカリさまなら、どうですか?」とレモニカはおずおずと尋ねる。
「私なら、こうだ!」と言ってユカリはレモニカの頭をさらに撫でる。「ケブシュテラのおかげで助かったよ!」
レモニカは照れ臭くなって矛先を逸らす。「ユカリさまの髪、これでは複雑な【鋭敏】を作るには足りなさそうですね」
手櫛で梳いてみると、それだけでおかしな感触だと気づく。ユカリは泣いていたが、これはもっと怒ってもいいはずだ。
落ち込むユカリを見てレモニカは慰めの言葉をかける。「でもほんの少しですよ。すぐに元通りです。問題はばらばらの長さになってしまったことで、あとで整えましょうね」
「あ!」ユカリはクオルを見下ろして嬉しそうに言う。「こんなところに黒髪が落ちてる!」
ユカリとレモニカはクオルの髪を使い、ユカリの持ち物の髪紐を駆使して禁忌文字を作った。意味するは紫衣を捧げ持つ娘、偏在する恩寵、運命、裸、幸運、緑の黒髪、乙女の髪飾り、救済までの時、そして【鋭敏】。
途端に白い光が辺りを眩く照らし、柱岩群が長い影を放射状に伸ばす。
日も大きく傾き、寒々しい岩の園で温かに輝く焚火のところへ戻ると、ベルニージュはとても分かりやすくおろおろしていた。焚火のそばを右往左往し、自分を責めるように呟いている。とても反省しているらしいことを見て取って、ユカリは許したようだった。
戻ってきた二人の姿を見て、ベルニージュが開口一番に謝罪する。ユカリと、それにレモニカにも。
「わたくしに対して、何を謝ることがあるんですか?」
レモニカには思い当たる節がなかった。
ベルニージュは言いにくそうに言う。「いや、その、昼間に言ったことなんだけど。ワタシにはあまり近づかないで、みたいなことを。傷つけたんじゃないかと思って」
確かにそのようなことを言われた。痛みはあったが、しかし傷つけられたとは思っていなかった。言うなれば既に存在した生傷に触れられたようなものだ。レモニカにとって、それは慣れたことだった。それでも、ベルニージュの真摯な謝罪をレモニカは快く受け入れた。
「【鋭敏】に関してはワタシが髪を染めようと思う」とベルニージュは真剣な表情でユカリを見つめて言う。
ユカリは満足そうに笑顔で返す。「ベルってば光に気づかなかったの?」
ベルニージュは首を傾げる。「光? 何のこと?」
「もしかして背を向けてた? 魔導書の衣、見てみてよ」
ユカリに促され、ベルニージュは魔導書の衣を翻す。するとそこに記された【鋭敏】の文字が初夏の夜の小さな土蛍のように淡く光っていた。
「あれ? どうやって? ユカリの髪、短くしちゃったのに、どうやって【鋭敏】を作れたの?」
ユカリはここぞとばかりに意地悪な笑みを浮かべる。「秘密だよ。私とケブシュテラだけのね」
「ええ!? 気になる! 教えて。反省してるからさ」ユカリが聞く耳を持たないと分かるや、ベルニージュはレモニカの方に向き直る。「お願い。ケブシュテラ、ワタシにも教えて!?」
レモニカはそれに答えず、しかし焚書官の鉄仮面によって伝わらないだろう真剣な表情を作って言う。
「わたくしからもお二人に謝り、お伝えしたいことがあります」声色の緊張を聞き取って傾聴する姿勢になった二人にレモニカは向き合う。「わたくしの本当の名前は実りといいます。ケブシュテラはあだ名のようなもので、本当の名前ではありません」
決死の告白は、しかしすんなりと受け入れられた。
「へえ。レモニカ。良いね。綺麗な名前だね」とユカリは微笑みを浮かべて言った。「レモニカ、レモニカ、レモニカかあ」
「そりゃあ化け物ちゃんなんて名前なわけないよね」とベルニージュは言った。
自分の全てを明かす勇気は未だになかったが、レモニカはレモニカという名前を二人に知っていて欲しくなったのだった。まだどのような関係でもない関係を大事にしたかった。
「わたくしはやはり、したいこともすべきことも何もありませんが、お二人の旅に連れて行ってくださいませんか? 今はただ……」
二人のことをもっと知りたかった。
ベルニージュに目配せしてユカリは言う。「もちろん良いよ。大歓迎。すべきこと、したいことなんて気にしなくていいよ。だって何もすべきことがないなら、裏を返せば何をしたっていいってことでしょ?」ユカリは温かい手でレモニカの手を取る。これなら冬の寒さも平気そうだ、とレモニカは思った。
ユカリはレモニカの手を振りながら言う。「それなら大いに悩んで迷って、ただ楽しいことをすればいいよ。美味しいものを食べて、綺麗な景色を見て。音楽とか物語とか、世の中には素敵なものが沢山あるんだから。その内、やりたいことや行きたいところが見つかるかもよ?」
レモニカにはその言葉が、緑濃い春の野原に降り注ぐ麗らかな日差しのように感じられた。
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