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323
とある日の夜。
後宮は、珍しく静かだった。
今日は一体も妖が出なかったのだ。
風もない。
虫の声すら、どこか遠い。
元貴は一人、廊下を歩いていた。
前からずっと、頭の中に引っかかっているものがある。
――りょうちゃん。
自分が、昔そう呼んでいた。
誰を?
決まっている。
あの怪しい薬屋、藤澤涼架。
けれどなぜ呼んでいたのかがわからない。
涼架さんと出会ったのは、ほんの少し前のはずだ。
なのに、 昔から知っている。
そんな感覚が、やけに鮮明に残っていた。
「……なんなんだよ」
元貴は小さく呟いた。
そのとき。
――カサ。
庭の方で、何かが動いた。
「……?」
元貴は足を止めた。
ほんのわずかな妖気。
しかし確かに感じる。
なにかがいる。
「こんなところに……?」
陰陽師の宿舎に近づくなんて阿呆な妖だ。
静かに札へ手を伸ばす。
けれど、 妖気はすぐに消えた。
「……気のせい?」
元貴が庭を見る。
月明かりに照らされた木々が目に入った。
何もいない、 そう思った。
――その瞬間。
木の向こうを 何かが横切った。
「!」
元貴は反射的に走り出した。
⸻
しばらく走って辿り着いたのは前の湖。
そこで 元貴は立ち止まった。
「……誰だ?」
返事はない。
だが、 確かに何かいる。
木々の隙間。
そこに―― 人影があった。
金色の髪の…。
「……涼架さん?」
その声に、 人影が振り返った。
――違う、涼架さんじゃない。
そう思った。
あの人は涼架さんだ。
でもいつもの涼架さんじゃない。
金色の髪が風に舞う。
金色の瞳が暗闇の中で淡く光っていた。
頭には狐の耳があった。
そして その背後に。
「……尾?」
一本、 いや 二本。
――三本。
大きな金色の尾が 夜の闇の中でゆっくり揺れていた。
「……っ」
元貴は息を呑んだ。
妖狐。
間違いない。
初めて見た。
けれど その姿を見た瞬間。
頭の奥が、 突然強く揺さぶられた。
⸻
――ずっと昔。
まだ、元貴が小さかった頃の記憶。
雨が降っていた。
冷たい雨だった。
元貴は外に立っていた。
小さな身体には、大きすぎる服。
濡れた袖。
泥のついた足。
どこへ行けばいいのかも分からない。
誰を頼ればいいのかも分からない。
ただ 寒かった。
お腹が空いていた。
そして 怖かった。
「……おかあさん ……おとうさん」
返事はない。
幼い元貴は、そのときひとりだった。
どれだけ歩いたのかも分からない。
ただ、大きな屋敷から遠ざかるように歩いた。
誰かに手を引かれたわけでもない。
誰かに送られたわけでもない。
でも、あの屋敷からは離れないといけなかった。
「……帰らなきゃ」
そう思った。
でも どこへ帰ればいいのか分からなかった。
足が痛い。
身体が重い。
雨で視界もぼやける。
やがて 元貴は、道の脇にしゃがみ込んだ。
「……さむい」
小さな声。
誰にも届かない。
そのときだった。
「……君」
声がした。
顔を上げると、 そこに 金色の髪をした人が立っていた。
傘も差さず 雨に濡れながら、 不思議そうにこちらを見ている。
その瞳はきれいな金色だった。
「こんなところで何してるの?」
幼い元貴は答えなかった。
怖かったから。
知らない人だったから。
その人は少し困ったようにしゃがみ込む。
「おうち、どこ?」
「……」
「名前は?」
「……元貴」
「もとき?」
こくん。
男は少し笑った。
「そっかぁ。 俺は涼架」
その声は なぜか怖くなかった。
「……りょうか?」
「うん」
「……りょうちゃん?」
涼架が目を丸くする。
「え?」
幼い元貴は、自分でも分からないまま言った。
「りょうちゃん」
涼架はしばらく黙って。
それから。
「……うん」
優しく笑った。
「それでいいよ」
⸻
その日から 元貴の世界には必ず涼架がいた。
最初は ただの雨宿りだった。
けれど そのまま帰る場所が見つからなかった元貴を、涼架は放っておかなかった。
「今日、どこで寝る?」
「……分かんない」
「そっか」
涼架は少し考える。
「じゃあ、うち来る?」
「……いいの?」
「いいよ」
それだけだった。
大げさなことは何も言わなかった。
ただ 温かいご飯を食べさせてくれた。
濡れた服を乾かしてくれた。
眠る場所を作ってくれた。
夜になると。
「怖くないよ」
そう言って、能力で灯りをつけてくれた。
元貴は、初めて 「帰る場所」というものを知った。
⸻
朝になると 涼架は薬草を干していた。
「元貴、触らないでね」
「これ?」
「それは毒草」
「こっちは?」
「薬」
「こっちは?」
「それも薬」
「じゃあこれは?」
「……それは薬じゃないけど食べ物」
「食べていい?」
「生ではやめて」
「なんで?」
「お腹壊すかもでしょ」
「……」
「そんな顔しないの」
元貴は薬草を睨んだ。
それを見た涼架が笑う。
そんな日々だった。
何でもない日。
でも 元貴にとっては 何でもない日なんて一度もなかった。
⸻
ある日 涼架が横笛を吹いていた。
静かできれいな音だった。
元貴は縁側に座って、その音を聞いていた。
「……りょうちゃん」
「ん?」
「もう一回」
「また?」
「うん」
「好きなの?」
「好き」
「そっかぁ」
涼架は笑って もう一度、笛を吹いた。
それを聴いた元貴は嬉しそうに笑った。
「りょうちゃんの笛、好き」
「ありがと」
「ずっと吹いてて」
「ずっと?」
「うん」
涼架は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、ずっと吹こうかな」
⸻
ある日元貴は涼架と一緒に山へ来ていた。
涼架は薬草を取っている。
湖の湖畔に立って 水面を覗き込んでいた元貴が、ふと顔を上げた。
「ねえ、りょうちゃん」
「ん?」
「僕の目って、普通?」
涼架が隣にしゃがむ。
「うん。普通だよ、きれいな黒色」
「ほんと?」
「ほんと」
元貴は水面を見る。
そこに映っているのは、どこにでもいる子供の瞳。
特別な色をしてはいない。
「よかった」
「なんで?」
「だって、普通がいいし」
涼架は少しだけ不思議そうに笑った。
「りょうちゃんの目はきれいな金色だねっ。お月さまみたい」
元貴は嬉しそうに笑った。
「そんなにきれいな物でもないよ…」
「元貴はさ、能力者とか憧れないの?」
「ふつうがいちばんいい!」
「すっごい子だねぇ…」
――その普通の瞳が。
いつか大森家で「赤眼」と呼ばれることになるなんて。
このときの元貴は、まだ知らなかった。
「涼ちゃーん!」
遠くから声がした。
「ん?」
二人が振り返ると、 茶色の髪に 青い瞳の 少し背の高い青年が、こちらへ飛んでくる。
「あっ!また元貴といる」
涼架が笑う。
「滉斗、おかえり」
「ただいま!」
滉斗は元貴を見る。
「元貴、何してたの?」
「水見てた」
「楽しい?」
「うん」
「じゃあ俺も見る!」
「なんで?」
「俺も見たいから」
滉斗が隣に座る。
三人で水面を覗き込んだ。
元貴は思わず笑った。
「滉斗って変なの」
「元貴に言われたくない!」
「僕、変じゃないよ」
「涼ちゃん!」
「ん?」
「元貴が俺のこと変って言った!」
「元貴も滉斗も変だよ」
「涼ちゃんまで!」
⸻
けれど そんな日々は 永遠には続かなかった。
ある夜、 元貴は高い熱を出した。
「……りょうちゃん」
「ここにいるよ」
身体が熱い。
息が苦しい。
何をされているのかも分からない。
涼架が何度も名前を呼んでいる。
「元貴」
「……ん」
「大丈夫」
「……こわい」
「大丈夫だよ」
涼架の手が、額に触れる。
冷たい、 気持ちいい。
そのときに少し部屋に金色のモヤが現れた気がした。
ちょっと身体が楽になった気がする。
「ここにいるから」
「……ずっと?」
「うん」
「……ほんと?」
「ほんと」
元貴は、その言葉を信じた。
⸻
その夜 涼架は眠っている元貴の横で何かをしていた。
「…ッチ……厄介なもんかけやがって……糞野郎ども」
「まさか、保険がかかっているとはね…なにか手は打ったの?」
「術はかけた。でも気休め程度にしかならないね。このままだと元貴は…でも……」
「涼ちゃん………」
「滉斗…どうしたら…」
「助けてあげようよ」
「でも…元貴がすごく苦しい思いをしなきゃいけないかもだから…」
「命があるに越したことはないよ。涼ちゃんはさ、俺を助けて後悔してる?」
「してない…」
「でしょ?何かあったら俺らがなんとかすればいい。涼ちゃんには元貴を助けられる力がある。使ってあげなきゃ」
涼架は決心した顔をして元貴のそばに行った。
だんだんと冷たくなっていく元貴を見る。
そして、自分の指を切って出てきた血を元貴に飲ませた。
幼い元貴には、それが何なのか分からない。
ただ、 涼架が苦しそうな、どこか寂しそうな顔をしていたことだけは覚えている。
「……これで大丈夫」
「りょうちゃん……?」
「ありゃ、起きちゃった?」
「どこいくの?」
「どこにも行かないよ」
涼架は元貴の手を握った。
「ずっとここにいる」
その手が 少しだけ震えていた。
⸻
やがて 熱が下がって 元貴は眠った。
そして 次に目を覚ましたとき 見える世界が少しだけ変わっていた。
「…りょうちゃん」
「おはよ、元貴」
涼架が元貴の顔を見る。
そして ほんの少しだけ目を見開いた。
「……ぁ」
「どうしたの?」
涼架は答えなかった。
元貴は近くにあった水面を覗き込む。
そこに映っていた自分の瞳は 昨日までのものとは違っていた。
「……目、赤い」
「……うん」
「なんで?今まで普通だったのに」
涼架は少し黙って。
「……綺麗だよ。どんな元貴も」
そう言って笑った。
元貴は不思議そうに瞬きをする。
「そっか」
「じゃあ、いいや」
元貴は笑った。
涼架はその笑顔を見つめる。
その奥にあるものを まだ幼い元貴は、何も知らなかった。
⸻
それからしばらくして 元貴の左手首に、白い包帯が巻かれた。
巻いたあとに涼架が少し術をかけた。
「これ、なに?」
「お守り」
涼架が答えた。
「おまもり?」
「うん」
「何から守るの?」
涼架は少しだけ困ったように笑った。
「……悪いやつから」
「じゃあ、大事?」
「うん」
涼架は元貴の小さな手首をそっと撫でる。
「すごく大事」
「じゃあ、外さない」
「約束ね」
「約束!」
幼い元貴は笑った。
⸻
そして また別の日。
元貴は涼架と町へ出ていた。
人が多い場所だった。
元貴は涼架の服の裾を掴んで歩く。
「りょうちゃん」
「ん?」
「迷子になったらどうする?」
「迷子にならないよ」
「でも僕、迷子になるかも」
「じゃあ手繋ぐ?」
「うん!」
涼架が手を差し出す。
それを元貴がぎゅっと握った。
温かい。
「これなら大丈夫」
「うん!」
その瞬間、 遠くから声がした。
「――大森家の者では?」
元貴の足が止まる。
涼架も ほんの少しだけ動きを止めた。
「……元貴」
「ん?」
「僕の後ろにいて」
「……?」
その後のことは ところどころしか覚えていない。
誰かに呼ばれたこと。
怖かったこと。
涼ちゃんが何かを話していたこと。
そして 自分が泣いたこと。
「いやだ」
「元貴」
「やだ!」
「……」
「りょうちゃんといる!」
小さな手が 涼架の服を掴んで離さなかった。
けれど。
最後に その手は離れた。
⸻
「……りょうちゃん!」
大人に押さえつけられながら心の奥底から叫んだ。
振り返った涼架の顔は 悲しそうだった。
でも 笑っていた。
「元貴」
「……」
「大丈夫」
「……やだ」
「また会えるよ」
「ほんと?」
「うん」
「約束?」
「約束」
涼架は笑った。
そして 元貴の左手首に巻かれた白い包帯へ触れた。
「これだけは、絶対に大事にしてね」
「……うん」
「忘れてもいいから」
「え?」
「これだけは、なくさないで」
幼い元貴には その言葉の意味が分からなかった。
ただ 涼ちゃんが泣きそうな顔をしていたことだけは覚えている。
最後に涼ちゃんは僕の額に口づけた。
そのときに一瞬で辺りに金色のモヤが充満したきがする。
そこで僕の記憶は途切れた。
⸻
その後、幼い元貴は誰かに手を引かれながら歩いていた。
大きな門。
高い塀。
見覚えがあるような気がする。
けれど、それ以上は何も思い出せなかった。
「ここがお前の家だ」
隣を歩く男が言う。
「……家?」
元貴は門を見上げた。
「そうだ。大森家だ。忘れてしまったのか?」
「……」
大森家。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がほんの少しだけざわついた。
けれど、それだけだった。
「入れ」
門が開く。
中には何人もの人間がいた。
使用人。
陰陽師。
大人たち。
そして、その奥に。
自分と少し年の離れた二人の子供が立っていた。
「……元貴?」
片方が呟く。
「元貴が帰ってきたの?」
もう片方も元貴を見る。
元貴は二人を見上げた。
知らない。
だけど、見覚えがあるような気がした。
「……元貴」
「本当に、いろんなことを忘れてしまっているんだね…」
「あの金色の眼の男…何者なんだ」
「それはもういい。今度調べよう」
「それよりも、元貴。今日からお前は大森家の人間だ」
元貴は黙って頷いた。
「……はい」
その返事を聞いて、大人たちは満足そうに頷いた。
「では、部屋へ案内しろ」
「はい」
元貴は歩き出す。
その途中 廊下の壁に掛けられた鏡が目に入った。
元貴は何気なく足を止める。
鏡の中には当然だが自分が映っていた。
黒い髪、 幼い身体。
そして―― 赤い瞳。
「……」
元貴は自分の目をじっと見つめた。
「珍しいでしょう」
後ろから声がした。
「……?」
「その赤い眼のことです」
大人が言う。
「大森家では特別な意味を持つんですよ」
「特別……?」
「そうですよ」
その言葉に、元貴は少しだけ目を見開いた。
特別。
その響きは、悪くなかった。
むしろ――。
「……僕、特別なの?」
「はい」
「……そっか」
幼い元貴は鏡の中の自分を見る。
大森家の誇りの赤い瞳。
けれど、なぜか 胸の奥に小さな違和感があった。
――普通がいい。
そんな言葉が、頭の中を一瞬だけ掠めた。
「……?」
元貴は首を傾げる。
何のことだろう。
誰が言ったのだろう。
分からない。
だから、すぐに忘れた。
「行くぞ」
「はい」
元貴は歩き出した。
⸻
その日から 元貴は大森家の末っ子として暮らし始めた。
朝は早い。
起きたら身支度を整える。
食事を済ませる。
そして――修練。
「札を持て」
「術式を覚えろ」
「もう一度」
「動きが遅い」
まだ幼い身体には辛い。
腕が痛い。
足も痛い。
それでも、元貴は弱音を吐かなかった。
周囲の大人たちは言った。
「さすが赤眼だ」
「覚えが早い」
「将来が楽しみだ」
そのたびに元貴は嬉しそうに笑った。
「もっと頑張ります」
褒められるのが嬉しかった。
期待されるのが嬉しかった。
自分にも、ここにいる意味がある。
そう思えたから。
⸻
ある夜。
修練を終えた元貴は、自分の部屋で一人になっていた。
疲れて布団へ入る。
目を閉じる。
すると どこからか、笛の音が聞こえた気がした。
細くて。
優しくて。
少しだけ寂しい音。
「……?」
元貴は目を開けた。
何もない。
「……りょうちゃん?」
そんな言葉が口から出た。
けれど、 なぜ自分が「りょうちゃん」という言葉を口にしたのか分からない。
「……変なの」
元貴は布団に潜り込んで そのまま眠った。
⸻
翌朝。
元貴は「りょうちゃん」のことを覚えていなかった。
それから何日も。
何年も。
大森家での生活は続いた。
二人の兄と共に育ち、 陰陽術を学び 妖を祓う術を身につけていった。
周囲からは「赤眼の子」と呼ばれた。
特別な子。
大森家の未来を担う子。
元貴自身も、次第にそれを受け入れていった。
「僕は大森家の人間だから」
それが当たり前になった。
涼架という名前も、 金色の髪も、 温かい手も、 一緒に過ごした日々も。
雨の日に拾われたことも、 笛の音も。
全部。
元貴の中から消えていった。
――ただ一つだけ。
どうしても消えなかったものがあった。
左手首。
そこに巻かれた、白い包帯。
「……これ」
幼い元貴は、それを見つめる。
いつから巻いているのか。
誰に巻かれたのか。
なぜ大切なのか。
何も思い出せない。
けれど。
「……外しちゃだめなんだ」
そう思った。
理由なんて分からない。
ただ、それだけは分かった。
元貴は包帯をそっと撫でる。
そして。
「おまもり」
誰に教えられたのかも分からない言葉を、小さく呟いた。
その意味を、元貴自身は知らない。
けれど その言葉だけが。
かつて自分を救ってくれた誰かの声だけが。
記憶の底に、ほんの小さな欠片として残っていた。
⸻
それから何年も経った。
元貴は立派な陰陽師になった。
赤い瞳を持つ、大森家の末っ子。
妖を祓うことを使命とし。
与えられた役目を果たし。
誰よりも努力する青年になった。
その人生に 「藤澤涼架」という名前は存在しなかった。
少なくとも、元貴自身はそう思っていた。
けれど 笛の音を聞けば、ほんの少しだけ胸が痛む。
金色のものを見れば、なぜか目を奪われる。
そして。
「りょうちゃん」
その名前だけが 意味もなく、ずっと心の奥に残っていた。
元貴は覚えていなかった。
その名前を呼んでいた幼い自分が かつて誰に救われたのかを。
そして―― その人が今も、自分のすぐそばで生きていることを。
⸻
「……っ!」
元貴は現実へ引き戻された。
息が荒い。
膝に手をつく。
頭の中が割れるように痛い。
目の前には まだ涼架がいる。
けれど もう尾は見えない。
いつもの”人間”の姿。
「……」
涼架は何も言わない。
元貴も すぐには何も言えなかった。
ただ 胸の奥にあったものが 少しずつ繋がっていく気がした。
「……あの日」
元貴が呟いた。
「僕を拾ったのも」
涼架は答えない。
「熱を出した僕を助けたのも」
「この包帯を巻いたのも」
元貴は左手首を見る。
「全部、涼架さんだったんだ」
涼架はしばらく黙って 小さく頷いた。
「……うん」
「どうして」
「ん?」
「どうして僕を助けたの?」
涼架は少し考えた。
そして。
「困ってたから」
「……それだけ?」
「うん」
「昔からそれなんだね」
「そうかもねぇ」
涼架は少し笑った。
「目の前で困ってる子がいたら、助けるでしょ?」
元貴は笑った。
「本当に変な人」
「よく言われる」
「でも」
元貴は涼架を見る。
「ありがとう」
涼架がよりいっそう笑顔になった。
「僕、昔のこと全部は覚えてない」
「でも」
元貴は一歩近づく。
「貴方がいなかったら、僕はここにいなかった」
「だから」
元貴は少し照れくさそうに笑った。
「妖とか陰陽師とか、今さらどうでもいいよ」
「……元貴くん」
「それに」
少しだけ笑って。
「昔の僕が、あんなに懐いてたんでしょ?」
「じゃあ今さら距離を取る方が変じゃん」
涼架の目が少し潤んだ。
「……そうだねぇ」
「元貴くんは…」
「その呼び方もやめない?」
「え?」
「……なんか他人行儀」
涼架は目を丸くする。
「じゃあ……」
少しだけ迷って。
「元貴」
その声を聞いた瞬間 胸の奥にあった何かが ようやく あるべき場所に収まった気がした。
「ちっちゃい頃に戻ったみたいだね」
元貴は笑った。
涼架も笑う。
「じゃあ、改めてよろしくね」
「よろしく」
少しの沈黙、 そして。
「……そうだ」
涼架が突然顔を明るくする。
「昔みたいに薬屋に住む?」
「え?」
「ここ、部屋余ってるよ」
「……手続きが面倒」
「えぇ……」
「また今度」
「いつ?」
「知らない」
「元貴ぃ……」
「その面倒くさがり、誰に似たのよぉ」
「涼ちゃんでしょ」
「えっ?滉斗?」
「いつからいたの?」
「さっきから」
「気づかなかった」
「二人とも話に夢中すぎ」
木の陰から滉斗が出てくる。
元貴が苦笑した。
「……お前もいたのか」
「うん」
「聞いてた?」
「ちょっとだけ」
「盗み聞きとか趣味悪ぃ」
「ひど」
涼架が笑った。
その笑い声を聞いて、 元貴もつられて笑った。
⸻
翌朝。
「涼ちゃーん!」
店の奥から滉斗の声がする。
「起きてるー?」
「起きてるよぉ」
「嘘だろ」
「起きてるって」
「じゃあなんで布団から出てこないんだよ」
「寒い」
「だから昼だって」
いつものやり取り。
そこへ。
「……朝からうるさい」
元貴が入ってきた。
「お、元貴」
滉斗が笑う。
「おはよう」
「おはよ」
「……」
涼架が布団から顔を出す。
「元貴?」
「何」
「なんか変わった?」
「別に」
「ほんと?」
「ほんと」
涼架はじっと元貴を見る。
元貴も見返す。
しばらくして。
「……ふふ」
涼架が笑った。
「なんか嬉しい」
「何が?」
「元貴が元貴してる」
「意味分かんない」
滉斗が横から笑う。
「まあ、いいんじゃない?」
「滉斗まで」
「俺は前から普通に話してたし」
「……確かに」
三人の間に 少しだけ 前とは違う空気が流れていた。
⸻
その日の昼。
元貴は滉斗と二人で町を歩いていた。
「なあ、滉斗」
「ん?」
「一つ聞いていい?」
「いいよ」
「お前は涼ちゃんが妖狐だって知ってたんだよな?」
滉斗は一瞬だけ黙った。
けれど。
「うん」
素直に答えた。
「ずっと?」
「ずっと」
「そっか」
元貴はそれ以上聞かなかった。
ただ。
「……二人とも、変な奴だな」
「今さら?」
「今さら」
二人は笑った。
その頃 少し離れた場所で、 涼架は一人空を見上げていた。
元貴が記憶を取り戻した。
それは 涼架にとって嬉しいことだった。
けれど 同時に 忘れていたものが戻るということは、 過去だけではなく過去に繋がるものまで戻ってくるということでもある。
「……まだ、早いと思うんだけどなぁ」
涼架は小さく呟いた。
金色の瞳が、遠くを見る。
「……でも」
ほんの少しだけ笑う。
「帰ってきてくれて、よかった」
その言葉の意味を 今はまだ、誰も知らない。
そして 元貴自身もまだ知らない。
あの夜、元貴を救ったものが何だったのか。
身体に、何が起きたのか。
なぜ瞳に色が宿ったのか。
そして――。
なぜ涼架が、今もなお 元貴をあれほど大切にしているのか。
その答えは、 まだ涼架の記憶の奥に眠っていた。
コメント
4件
遅くなってすみません…! この小説ほんとに好きで…!設定とか物語の構成とかすごく考えられていて、思わず世界観に惹き込まれました!!文才ありすぎじゃないですか…?
大森さんの過去がついに明らかに…といっても、まだまだわからないことだらけですが。若井さんも、いつからかいるような登場で、なおかつ涼ちゃんに助けられていて、若井さんの過去もすごく気になります。涼ちゃんの血で大森さんが赤眼になったので、若井さんもそういう筋だったりして…。1話で言ってた「世界そのものに関わる存在」という涼ちゃん…全くこの先の予想がつかない!今後の展開、めちゃくちゃ楽しみです!!
お話の構成とかセリフ、雰囲気や3人の関係性が好きすぎてもう飛び上がってます。文才がありすぎますよほんとに!あと2万回は絶対読み返します