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「参考事例」
ここはマルトクテックカンパニーの開発センター建屋内の一室。
分析官である佐伯は、発言しようとして口を開きかけ、
そのまま、何も言わずに閉じた。
議題表の右端に、小さく注釈がついている。
※本件に関する発言は、定量評価に基づく者に限る
数値を持たない者は、ここでは沈黙する。
それがいつの間にか、この会合の「常識」になっていた。
本部の視線は、もはや佐伯を通り越している。
彼らが探しているのは、数字ではない。
数字に代わる、別の権威だった。
その頃、別室。
月影は、会合の結果を知らされていなかった。
いつもなら届くはずの要約メールも、
非公式な共有資料も、今回は一切ない。
理由は告げられない。
ただ、「今回は不要です」とだけ伝えられた。
月影は、それ以上を尋ねなかった。
尋ねないことが、最も安全な選択だと知っていたからだ。
数日後。
制度設計に関するワーキンググループに、
一人の女性が加わった。
元・溺愛プラン利用者。
かつては「守られる側」だった人物。
今は、制度側の席に座っている。
「当事者視点として」と紹介されたが、
彼女の役割は、感情の代弁ではなかった。
「こういう条件なら、人は離脱しません」
「ここを曖昧にすると、依存ではなく不信になります」
語られるのは、体験ではなく最適化の知見だった。
制度は、彼女を“救った”のではない。
使える形に変換しただけだった。
さらにその裏で。
元・業務補助者だった彼女が、
官僚案件の一部に関わり始めていた。
直接の制度名は伏せられている。
書類上は、ただの「行動支援モデル」。
だが、構造はよく似ていた。
そこに目をつけたのが、夏井環境相だった。
「セキュリティの堅牢ささえ保てれば使えるかも♪
この案件のこと、さっそく総理にも話そう☆」
軽やかな声。
無邪気に見えるほどの即断。
その瞬間、
会議室の空気が、わずかに歪んだ。
「――待て」
初めて、はっきりと止めたのは津川進だった。
「それは“参考事例”じゃない」
「制度の試作品だ」
夏井は首を傾げる。
「何が違うの?」
津川は一拍置いて答えた。
「一度“役に立った人間”を、
制度は必ず戻そうとする」
「戻して、
今度は“使う側”に立たせる」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
反論ではない。
否定でもない。
ただ、
すでに起きている事実を、
言葉にされたにすぎなかったからだ。
会合は、そのまま結論を出さずに終わった。
佐伯は最後まで発言しなかった。
月影は、何も知らされないままだった。
そして制度は、
静かに次の段階へ進んでいく。
救われた者が、
最も制度に忠実になる。
それが、
誰にも書かれていない、
この仕組みの核心だった。
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