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「紹介」
月影真佐男が、その案件を思い出すとき、
いつも最初に浮かぶのは資料ではなかった。
契約者宅の室内に取り付けられたカメラ越しに見た
笑顔だった。
「問題ありませんよ」
「満足度も高いですし」
そう言っていた、関係者たちの、
どこか軽やかな表情。
――あれは、止められなかった案件だ。
当時、花子はまだ制度の外にいた。
テック系別企業に勤める友人、
上川葉芹(かみかわ・ぱせり)とは、
仕事の愚痴を言い合う程度の関係だった。
葉芹は四十五歳。
童顔で、既婚者で、
「困ってる感」がまるでない人だった。
ある日、花子はふと思い出したように訊いた。
「ねえ、最近ちょっと話題の……
【溺愛プラン】って、使ったことある?」
葉芹は、即答だった。
「あるよ~!
ライトの、週一デートのやつ!」
花子が想像していた反応と、違った。
「え、どうだった?」
「楽しかったよ~☆
この前なんて、夫も一緒に三人で
うちのダイニングでご飯食べたんだよ」
あまりに自然な言い方だった。
「ほら、第三者がいると安心でしょ?」
「変な空気にもならないし」
葉芹は笑いながら、こう続けた。
「花子も今度誘っていい?」
その瞬間、花子の胸に、
はっきりとした拒否が浮かんだ。
――それは、ちがう。
――そこまでは、踏み込みたくない。
「……あ、誘われるのはちょっと」
言い淀みながらも、花子はそう答えた。
だが、間を置いて、付け足した。
「でも、サービスそのものは気になるから」
「よかったら、紹介だけして」
葉芹は少し驚いた顔をして、
それから、いつもの調子で頷いた。
「いいよ~!
合いそうな人、聞いてみるね☆」
それが、ハヤトだった。
プロフィールは整っていた。
言葉遣いも丁寧で、
「踏み込まない距離感」を心得ていた。
花子は安心した。
誘われなかった。
踏み越えられなかった。
だからこれは、安全だと思った。
ただの紹介。
ただの選択。
そのはずだった。
月影は、当時の承認フローを思い出す。
利用者は満足している。
第三者も同席。
問題行動なし。
「健全な拡張例」として、
報告書にはそう書かれていた。
だが今なら、分かる。
あれは――
入り口だった。
拒否した人間ほど、
「自分で選んだ」と信じる構造。
誘われなかったから大丈夫だと、
安心して踏み出す最初の一歩。
月影は、そこで止めるべきだった。
だが止めなかった。
正確には、止められなかった。
誰も困っていなかったからだ。
資料を閉じて、月影は小さく息を吐く。
救われたわけでもない。
縛られたわけでもない。
ただ、
「気になるから紹介して」
その一言から始まった連鎖。
彼はようやく、
自分が見逃していたものの正体を掴みかけていた。
制度は、
拒否の隙間から入ってくる。
それが、
あの案件が止められなかった理由だった。