「お疲れさまです」
麗が給湯室に入ると、シン、と給湯室内が静まり返った。
「えっと、皆さん、創業家とはいえ正妻の娘である姉の麗音ではなく愛人の娘である私の突然の社長就任、戸惑われていますよね」
威圧しないよう目を合わせずに麗はお茶を作りながらなるべく落ち着いた口調で話した。
麗が愛人の娘であるのは周知の事実なので、隠すつもりはなかった。
なんてったって、父が事件を起こしたときに名前こそ書かれなかったが、ワイドショーに家族相関図が出て、本妻との間に産まれていない娘と書かれていたくらいだ。隠しようがない。
「私の社長就任は、大株主でもある前社長が指名したことによるものです。ご存知の方も多いかと思いますが、私はもともと営業二課で主任をしておりまので、とてもではないですが器ではないです。それでも指名されたのは父が姉に劣等感を抱いていて、且つ、私なら御せると考えたからでしょうね」
麗はどうにもならないので軽く笑った。
「ですが父を追い出したい気持ちは私も一緒でしたので、私はお飾りに徹して、協力会社の須藤ホールディングスから須藤明彦氏に出向してきていただき、重役の皆さんとともに会社の舵取りをお願いしているというのが現状なんです」
麗は震える指先を隠すように手を後ろに回して微笑みかけた。
目の端に映る今着ている高級なスーツ。
社長がリクルートスーツでは格好がつかないからと就任祝いに明彦が買ってくれたそれは、明彦という男と同じくらい麗には見合わない。
「明彦氏と姉が付き合っていたり、婚約していた事実はなく、私は姉を裏切っていません」
しっかりと前を見据え、麗ははっきりと告げた。
「私はそもそも父に認知すらしてもらえなかった娘です。実母の病気で困窮したところを姉に救われました。だから、私は絶対に、姉を裏切りません。私は姉をこの世で一番、愛していますから」
(本当に?)
口に出したのは、魔法の言葉。だって麗は姉を愛している。姉が麗のすべてだ。それなのにどうしてだろう、初めてその言葉に疑問ができた。
そのとき、給湯室に入ってきた明彦と目があった。
いつもの明彦だ。すらっと背筋が伸びでいて、どこまでも格好いい。
だが、麗の目に、明彦が傷ついているように見えた。
それは一瞬のことですぐに普段の彼に戻った。
「こんにちは」
明彦が挨拶をすると、彼女達がおずおず挨拶を返す。何となく彼女達の顔が青く見える。
安心しろ、さっきの話を聞いていたのは『義妹と呼ばれたくないの~婚約者の妹に迫られた官能の夜~』のヒロイン役の麗だけだ。
「麗さん、ちょっといいかな?」
明彦は社員の前では麗を呼び捨てしない。
内と外の区別は当然のものとわかっていても麗は、それが、何となくむず痒く感じる。
「わかりました」
まだ何か押さないといけない判子でもあるのかと、麗は明彦に着いていこうとした。
「須藤役員、待ってください!」
呼び止めたのは同期の正木だった。
「何でしょうか?」
明彦が外面用の笑顔で彼と向き合った。
「あの、その……」
明彦を呼び止めた時は激しかったトーンが急激に大人しいものになる。
どうしたというのだ、緊張しているように見える。
「新規事業や業務改善等のご提案でしたら、今度社内コンペの時間を作る予定ですので、その時に是非なさってください。楽しみにしています」
応援している口ぶりだが、二の句を継げない男性社員を明彦が早々に見限ろうとしている。
「どんなことをご提案なさるんですか? 楽しみです」
さっき庇ってもらった礼に、麗が助け船を出すと、彼は決意した顔で首を振った。
「……提案ではありません。聞きたいのです。あなたは社内で噂になっているように、純粋で初心な麗さんを騙し、前社長と組んで、麗音さんを追い出して会社を乗っ取ったんですか?」
明彦が麗を庇うように手を引いてきた。
さっきまで、噂をしていた女性達が、私達が噂をしていたんじゃありません。とばかりに揃えて手を横に振った。
凄い、振り方、角度、タイミング全てが揃っている。
「……私が突然現れ、麗さんが社長になったことで、事実無根の噂が出回っていることは把握しています」
「本当に、事実無根なんですね? もし、真実ならば、前社長と同じくあなたは子供達の幸せを作る子供服を売る権利はないと思います」
「疑問に思うお気持ちはわかります。倫理観のない上司に付くのもお嫌でしょう」
麗は心配したが、明彦は気にしている様子もなく淡々としている。
「ええ、麗さんには悪いですが前の社長で、もううんざりです」
大丈夫、家族が一番うんざりしているから、親の悪口を言われたと怒るわけがない、と麗は心の中で自嘲した。
「あなたが会社を乗っ取ったわけではないという証拠はありますか? 言葉だけでは信用できません。麗さんが心配です」
麗にしかわからなかったと思うが、何が琴線に触れたのか明彦がその途端、苛立ったのを感じた。
「麗の心配をするのは夫である私の役目です。それにしても、難しいことをおっしゃいますね。信用は仕事を通じて得ていくつもりでしたが、麗音さんと関係がなかったことを証明して欲しいだなんて悪魔の証明では?」
明彦が五木を睥睨している。
元々五木は麗をかばってくれていたのに何故こうなるのか。
「確かに麗音さんと私は高校時代からの友人ではありますが、恋愛関係に陥ったことは一度もありません。私が麗さんと結婚したのは、麗さんをとても大切に思っているから、それだけです。私にとって麗さんはずっと特別な女性でしたから」
「えっ?」
麗は、ゆっくりと人前でされた明彦の告白じみた言葉に顔が赤くなっていくのを感じていた。
何故か、噂をしていた女性たちが五木の肩を優しく叩いている。
「それでは失礼。仕事がありますので」
明彦に肩を抱かれ、強引に連れ出されながら、麗は明彦の顔を見た。
(ずっと、っていつから……?)
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