テラーノベル
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九条が勤務する聖マリアンナ精神医療センターの廊下は、常に一定の照度で保たれている。目に刺さるような蛍光灯の白は、狂気を管理し、すべてを無菌化するための色だ。 しかし、今の九条にとって、その白さは耐えがたい沈黙のように感じられた。
一週間前、佐藤ハルキが診察室の壁に血で目を描いて以来、病院の空気は確実に変質していた。 ハルキは現在、最深部の隔離病棟に移されている。窓もなく、鋭利な物は何一つない、究極の空白。そこなら彼の活動も収まるはずだった。
だが、現実は逆だった。
「九条先生、またです……」
看護師の里中が、青ざめた顔で九条を呼び止めた。
「第3病棟の患者たちが、一斉に同じことを。……まるで、何かに感染したみたいに」
九条が彼女に案内された先では、三人の患者が談話室の床に座り込んでいた。彼らは配膳された食事の粥や、あるいは自分の指先を噛み切って流した血を使い、床一面に何かを描き殴っていた。 それは、あの歪んだ肖像画の断片だった。 バラバラにされた目、千切れた耳、叫びを上げる口。 それらが複雑に組み合わさり、一つの巨大な顔が床に浮かび上がろうとしている。
「佐藤ハルキは、彼らと接触したのか?」
「いいえ、一度も。彼は24時間監視下の独房にいます。声も届かないはずです」
九条は、床の絵を凝視した。 その線、その曲線。かつて整然とした図面を引いていたハルキの緻密さと、内側から湧き出した彼の荒々しい衝動。その二つが完全に融合した、あの独特の筆致だった。
狂気は、言葉や物理的な接触を介さずとも、この病院の白さを媒体にして伝播し始めている。
九条は、重い電子ロックをいくつも解除し、ハルキのいる独房へと向かった。 監視カメラの映像では、ハルキはずっと壁を向いて座ったまま動いていない。しかし、九条の心臓は、まるで猛獣の檻に足を踏み入れるかのように激しく鼓動していた。
「佐藤さん。……いや、君と呼ぶべきかな」
鉄格子の向こう側で、ハルキがゆっくりと首を巡らせた。 その顔は、一週間前よりもさらに削げ落ち、皮膚は紙のように薄くなっている。しかし、瞳だけが異常なほど爛々と輝いていた。
「先生……待っていたよ。僕の作品が、外へ漏れ出したのを感じたかい?」
声は、もはやハルキのものか、彼のものか判別がつかない。二つの人格が、一枚の布を裏表から縫い合わせるように、分かちがたく統合されていた。
「君は何をした。他の患者たちに、どうやって影響を与えたんだ」
「何もしないさ。ただ、彼らの中にあった重りを外してあげただけだ。先生、君だってわかっているはずだ。人間はみんな、鏡の中に誰かを閉じ込めている。僕がしたことは、その鏡を少しだけ揺らした、ただそれだけのことだ」
ハルキは立ち上がり、壁を指差した。 何もないはずの、真っ白な壁。 しかし、九条の目には、そこに無数の線が見え始めていた。 ハルキの指先から、見えない糸が伸び、病院全体の壁を、床を、そして九条の脳を、巨大なキャンバスとして捉えている。
「佐藤さん、正気に戻るんだ。これは君の脳が見せている化学反応に過ぎない」
「正気? ああ、またその言葉だ。先生、君が信じている正気こそが、最も美しくない、捏造された幻覚だと思わないか?」
ハルキは格子に顔を寄せ、囁いた。
「見ろよ、先生。君の背後にも、もう一人の君が立っている。……彼は、今の君の情けない顔を見て、反吐が出ると言っているよ」
その夜、九条は自分のマンションで、暗闇の中に座っていた。 酒を飲んでも、もはや酔うことはできない。意識は研ぎ澄まされ、世界のあらゆるノイズが鋭利な刃物となって脳を刻む。
彼は、洗面所の鏡の前に立った。 いつだったか、ハルキが感じたあの違和感が、今、自分を飲み込もうとしている。 鏡の中の自分。 見慣れた精神科医の顔。清潔な剃り跡、理知的な眼鏡。 しかし、瞬きをした瞬間。 鏡の中の自分の口角が、現実の自分より一瞬早く、吊り上がったように見えた。
「……はは」
九条は、自分の指先を見つめた。 指が、勝手に動く。 ペンを持ちたい。何かを描きたい。 ハルキが描いたあの歪な世界を、自分というフィルターを通して、もっと完璧に完成させたいという渇望。
彼は気づいてしまった。 自分はハルキを治療しようとしていたのではない。 ハルキという作品に、自分も書き加えられたいと、魂の底で願っていたのだ。
彼はリビングへ戻り、壁に向かった。 そこには、彼が長年かけてコレクションしてきた、高価で静謐な風景画が飾られている。 九条は、迷うことなくその絵を床に叩きつけた。 額縁が割れ、ガラスが飛び散る。 彼はその破片の一つを拾い上げ、自分の腕に押し当てた。
痛みはない。 ただ、中から色が出てくるのを、心待ちにしていた。
翌朝。 聖マリアンナ精神医療センターは、阿鼻叫喚の渦の中にあった。 夜勤の看護師たちが発見したのは、文字通り塗り替えられた病院の姿だった。
壁、床、天井。 あらゆる場所に、患者たちの返り血と排泄物、そして執念によって描かれた、終わりのない曼荼羅。 そしてその中心、ハルキの独房の前に、一人の男が立っていた。
九条だった。 彼は白衣を脱ぎ捨て、自らの体から溢れた赤で、ハルキの独房の扉に巨大な紋章を描いていた。 その紋章は、ハルキがかつて描いた図面のようでもあり、人間の神経系を剥き出しにした解剖図のようでもあった。
「先生……ひひひゃあああはは。ついに、扉を開けたんだね」
独房の中から、ハルキが静かに語りかける。 ハルキの顔には、もはや彼との境界線は存在しなかった。二つの人格は完全に溶け合い、一つの新しい生命へと進化していた。
「ああ、よく見える。よく見えるよ、ハルキ。世界が、こおんなにも色鮮やかだったなんて」
九条の瞳は、ハルキのそれと同じ、底知れない狂気の光を宿していた。
九条は、ハルキの独房の鍵を解いた。 それは、一人の患者を解放することではなく、この世界全体を狂気という名の自由へ解き放つ合図だった。
二人の男が、血の海と化した廊下を、ゆっくりと歩き出す。 背後では、他の患者たちが彼らを神と仰ぐかのように、一斉に叫び、笑い、踊り狂っている。
「次は、どこを塗る?」
九条の問いに、ハルキは窓の外の街を見据えた。 朝日を浴びて輝く、整然とした、死んだように退屈な街並み。
「どこ? 何? どれ? 知れたことを聞くなよ先生。すべてだよ、一人残らず、鏡を割ってやるんだ。……僕たちの本当の顔が見えるまで」
彼らが歩いた後には、決して消えることのない赤の足跡が続いていた。 それは、正気と狂気の境界が完全に消失した、新しい時代の地図だった。
街のどこかで、誰かが鏡を見る。 その背後で、もう一人の自分が笑う。 連鎖は、止まらない。
NGS_ヘビーなしっぽ
142
#現代
ぽたお
198
猫塚ルイ
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コメント
1件
うわ〜〜〜〜〜!!第3話、めっちゃ重くて美しくてやばかった…!!😭💕 九条先生が“治療する側”から“描き加えられたい側”に堕ちていくのが、静かでいて確実で、心臓掴まれる感覚だった…! 「鏡の中の自分が先に笑う」シーン、ゾッとしたし、そこから腕を切って色を待つ描写がもう病的でエモすぎて言葉が出ないよ…! 「次はどこを塗る?」「すべてだ」って、もう二人の狂気が完全にシンクロしてて、正気と狂気の境界が消えたラスト、痺れました…!!続きが待ちきれないよ!!🌸🔥