ジェシー 内科医
目の前の先輩医師は、パソコンの画面をこちらに向けた。
そこには、見たことのないような珍しい症例の患者のMRI画像とカルテがあった。いや、病気自体が珍しいわけではない。その年齢、性別でなることが珍しい。
「え…。30代の女性で膵がん……。なかなかないですね」
この間搬送されてきた患者さん――佐伯柑奈さんは、精密検査の結果、膵臓がんと診断された。
「まあな。この若さでは極めて稀だ。で、この患者を、先生に任せたい」
「え、僕…ですか?」
いきなり飛んできた指令に、動揺が隠せない。
「そう。ちょっとハードルは高いかもしれないけど、こういう複雑な症例も経験していおいたほうが絶対にいい」
とはいっても、僕ががん患者を担当したのはまだ1回しかない。それも予後が良く、完治して退院できた患者だ。今回のような、進行していて難しいがんは全くの初めて。
「でも…僕なんかに務まるか…」
「大丈夫だ。私もできる限りサポートはする」
先輩は、僕の肩をポンと叩き、去っていった。呆然としたまま、それを見送る。
本当にできるのだろうか。僕の心には、不安だけが残った。
「松村先生いらっしゃいますか」
放射線科の医局をのぞき、声を投げかけた。すぐに一人の男性が立ち上がる。
放射線科の、松村北斗。クールで日本的な顔立ちなので、看護師の間でもよく話題になるらしい。だが、ほんの少し口が悪いのが玉に瑕だ。
廊下に出ると、先方が話し出す。
「お前でも、ちゃんと医局に来るときは『先生』呼びできるんだな」
少し辛辣な言葉が向かってくるが、いつものことだ。
「そりゃできるよ!」
「で? わざわざ仕事中にやってくるってことは、仕事関係なんだろうな」
「もちろんだよ。あの、こないだ内科に上がってきた30代女性のがん患者さんの治療を、北斗にやってほしい」
「うん、がんか。症状は?」
「膵がんのステージ4。リンパと胃に転移が見られてる」
「そうか」
僕がかなり動揺した症状を、北斗は淡々と聞いている。
「キャンサーボードどうだった?」
「化学放射線療法になった。エスワンと放射線の併用」
「なるほど。…そういえば、担当医って誰?」
「え、俺」
北斗はへえ、と心外そうな顔をする。
「だからこうやって来たんだよ」
「ああ、わかった。…でもやるの、俺じゃないとダメなのか?」
「だって膵臓だもん。難しいから、北斗ならいけるかなって思って…」
語尾が小さくなったのは、北斗のやや冷たい視線を受けたからだ。
「……俺、一応放射線診断なんだけど。治療専門じゃない」
「でも…」
はあ、と北斗はため息をつく。
実際、放射線を照射するのは放射線技師の仕事だから、医師は監督みたいなもの。それでも、治療は医師の腕にかかっている。
「お前の頼みだからやってやる。今回だけな」
「ありがとう北斗」
その言葉を聞き、医局を出た。
人生2度目の、がん患者へのインフォームドコンセント。30分ほど話したが、体感は1時間を超えているくらいだった。
「はあ……」
肩をもみ、ため息をつく。と、一緒についてくれていた先輩医師が声を掛けてくる。
「お疲れ。よくできたICだったよ」
「ありがとうございます。でも、あれでちゃんと納得してもらえたか…」
「患者さんも比較的落ち着いて聞いていたし、いいんじゃないか」
「それならよかったですけど…」
「何か気になっていることでもあるのかい?」
「…それは…、僕の思い込みかもしれませんが」と断りを入れる。
「うん」
「…あまりにも佐伯さんが落ち着きすぎていると言いますか、まるでもう余命を宣告されることを知っていたかのような。…ちょっと不自然なくらい大人しく聞かれていたので」
「なるほどな」
北斗は北斗で淡泊な性格なので常に真顔だが、佐伯さんは全く動じず、特に質問もすることなく終了した。
年齢を重ねた老人だったら、病名を宣告しても「はあはあ」みたいな感じの反応の人もいるが、若い人はたいていかなり動揺する。珍しいといえば珍しい。
「まあ、そういう人もいらっしゃるよ。とにかく今は治療に専念する。余命はあるとはいえ、まずは治療だ」
「…はい」
言葉を飲み込み、うなずいた。
続く
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!