テラーノベル
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そのカフェには、雨の日にしか現れないノートがあった。 駅前の雑踏から少し外れた路地裏にある「珈琲館ろんどん」。年季の入った焦げ茶色の木製カウンターと、かすかに聞こえるジャズの旋律が心地よい、小さな喫茶店だ。 大学生の佐々木 航(ささき わたる)がそのノートを見つけたのは、梅雨の始まりを告げるような、ひどく激しい土砂降りの午後だった。サークルの課題に追われ、濡れた肩をすぼめて逃げ込んだ店内で、マスターが「雨宿りのお供にどうぞ」と手渡してくれたのが、革表紙の古いノートだった。 表紙には、かすれた金色の文字で『雨の日の足跡』と書かれている。 めくってみると、それは店を訪れた人々が、雨の日にだけ自由に言葉を書き残していく交換日記のようなものだった。「土砂降りのせいでデートが台無し。でも、ここのココアが美味しかったから許す」「雨の音って、どうしてこんなに寂しいんだろう」 様々な人の筆跡で綴られた、ささやかな日常の断片。航は何気なくページをめくるうちに、ある一つの文字に目を奪われた。 淡いブルーのインクで書かれた、驚くほど丁寧で、どこか凛とした美しい筆跡。『予報外れの雨。お気に入りの白い靴が汚れて落ち込んでいたけれど、窓の外を眺めながら飲む珈琲の温かさに救われました。雨も、たまには悪くない。 ―― 栞(しおり)』 それは、ただそれだけの短い文章だった。しかし、航の心に不思議なほど深く刺さった。雨を嫌うのではなく、小さな温もりに感謝して受け入れるその人の輪郭が、文字の向こうから浮かび上がってくるような気がしたのだ。 航は手元にあった黒のボールペンを握り、その文章のすぐ下に、小さく言葉を書き足した。『僕も同じ窓際の席で、同じように救われています。あなたの白い靴が、次の一歩で綺麗になりますように。 ―― 航』 書き終えてから、自分がひどく気恥ずかしいことをしたと気づき、航は急いでノートを閉じた。そして、冷めかけた珈琲を飲み干し、店を後にした。 * それからというもの、航は雨の日が待ち遠しくなった。 普段なら憂鬱でしかない雨雲が空を覆うたび、彼は授業の合間を縫って「ろんどん」へ足を運んだ。 二週間後、再び訪れた梅雨の合間の雨の日。マスターからノートを受け取り、そっとページを開く。心臓がトクトクと高鳴るのを感じた。 前回の自分のメッセージの下に、あの淡いブルーのインクが戻っていた。『航さんへ。温かい言葉をありがとうございました。お気に入りの靴は、クリーニングに出してすっかり綺麗になりました。今日は新しい傘を買ったので、雨の中を歩くのが少しだけ楽しみです。』 胸の奥が、じんわりと熱くなった。見ず知らずの、名前しか知らない「栞」という女性。顔も、声も、年齢さえもわからない。それでも、この雨の日のノートを通じて、二人の世界が確かに繋がっている。『栞さんへ。新しい傘はどんな色ですか? 僕は今日、お気に入りの本を濡らしてしまって少し凹んでいます。でも、このノートを開けたから、プラマイゼロ、いや、プラスです。』 文字の文通は、それから一ヶ月以上も続いた。 栞の紡ぐ言葉はいつも穏やかで、繊細だった。彼女が本や音楽を愛していること、少し人見知りであること、そして、このカフェの「シナモントースト」が好きなことが、少しずつ分かっていった。 航はノートを開くたびに、彼女の日常を想像し、まだ見ぬ彼女に恋をしていった。 けれど、季節は巡る。梅雨が明け、本格的な夏が訪れると、雨の日はめっきりと減った。 連日の猛暑。青く澄み渡る空を見上げながら、航はノートに触れられないもどかしさを募らせていた。手元にあるスマホを見つめても、そこには彼女の連絡先などない。デジタルな時代において、雨の日しか繋がれないという制約は、あまりにも狂おしかった。「栞さんに、会いたい」 一度膨らんだ想いは、もう止まらなかった。 * 八月の終わり。夕方になって、突然空が暗転した。 ゴロゴロと雷鳴が轟き、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が街を襲う。 航は大学の講義室を飛び出し、濡れるのも構わずに「ろんどん」へと走った。 息を切らせて店のドアを開けると、カランコロンと涼しげな鈴の音が響く。 店内には、数人の雨宿りの客がいた。航はいつもの窓際の席に目を向けた。 そこには、一人の女性が座っていた。 白いブラウスを着た、長い髪を後ろで緩く結んだ綺麗な人だった。彼女の手元には、あの革表紙のノートが開かれていた。そしてその細い指先には、淡いブルーの万年筆が握られている。 心臓が破裂しそうなほど激しく打った。間違いなかった。彼女が、栞だ。 航はゆっくりと歩み寄り、彼女のテーブルの前に立った。「……あの」 声をかけると、女性が驚いたように顔を上げた。すっきりとした涼しげな目元が、航を映す。「突然すみません。……そのノート、僕もいつも書いているんです。佐々木、航と言います」 彼女は一瞬、目を丸くした。それから手元のノートと航の顔を交互に見つめ、みるみるうちにその頬が桜色に染まっていく。彼女は万年筆をそっと置くと、嬉しそうに、少し照れくさそうに微笑んだ。「……見つかっちゃいましたね。私、栞です」 その声は、航が想像していたよりもずっと優しく、店内に流れるジャズの音に心地よく溶けた。「いつも、素敵な言葉をありがとうございました。航さん」「僕の方こそ。栞さんの言葉に、ずっと救われていました」 窓の外では、まだ激しい雨が地面を叩きつけている。けれど、二人の間には、世界で一番温かい時間が流れていた。「あの、もしよければ……」航は少し緊張しながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。「次の雨の日を待たずに、お話させてくれませんか?……晴れの日でも」 栞はクスッと小さく笑うと、「喜んで」と言って自分のバッグからスマートフォンを取り出した。 店内の窓ガラスを濡らす雨粒は、夕暮れの光を浴びて、まるで宝石のように輝いていた。もう雨の日を待つ必要はなくなったけれど、航にとって、雨は一生の宝物になった。
コメント
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わあ……素敵な物語でしたね。雨の日にしか開けないノートを通じて、見知らぬ誰かと心を通わせていく距離感が、すごく繊細で美しかったです。特に、航さんが「晴れの日でも話せませんか」と連絡先を求めるラスト、胸が温かくなりました。雨の日の出会いが、一生の宝物になるって言葉、とても好きです。次が気になります!