テラーノベル
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その町には、夜の帳が下りる頃にしか流れない不思議なラジオ番組があった。 海沿いの寂れた電波塔から発信されるコミュニティFM、番組名は「シーサイド・モノローグ」。パーソナリティの「潮(うしお)」と名乗る青年が、リスナーからの便りを読み上げ、静かな洋楽を流すだけの、たった30分の小さな番組だ。 大学を卒業し、地元の小さな図書館で司書として働き始めた橘 渚(たちばな なぎさ)は、毎晩ベッドの中でその声を聴くのが日課だった。 潮の声は、どこか遠い海鳴りのように低く、穏やかで、都会の喧騒から逃れてきた渚の心をいつも優しく包み込んでくれた。 ある夜、仕事で行き詰まっていた渚は、初めて番組にメッセージを送ってみることにした。本名を隠し、ラジオネームは「砂の文字」。『こんばんは、潮さん。私は最近、自分が周囲の期待に応えられているのか分からず、立ち止まってしまっています。海の底に沈んでいくような毎日の中で、潮さんの声だけが、私が息をできる場所です。いつもありがとう』 送った翌々日の夜。イヤホンから流れる彼の声が、渚の言葉を紡いだ。『……ラジオネーム、砂の文字さんから。ありがとうございます。立ち止まることは、悪いことじゃありませんよ。海だって、引き潮の時期があるからこそ、また美しい波を寄せることができる。あなたの心が今、少しずつエネルギーを溜めている時間なんだと思います。どうか焦らずに』 その言葉が、渚の目から涙をこぼさせた。声の主は、私のことを何も知らない。けれど、誰よりも深く自分を理解してくれたような気がした。 * それから、渚と「潮」の、電波を介した見えない交流が始まった。 渚が日常のささやかな出来事――図書館の窓辺に咲いた紫陽花のこと、新しく覚えたハーブティーの淹れ方のこと――を綴ると、潮は翌々日の放送で必ずそれに応えてくれた。『砂の文字さんが教えてくれたハーブティー、僕も試してみました。すっきりして、夜の生放送にぴったりですね』 声しか知らない相手。けれど、渚の心の中の彼は、日を追うごとに大きな存在になっていった。スマホの画面で簡単に繋がれる時代に、一晩待たなければ届かない彼の言葉が、何よりも愛おしかった。 そんなある日、渚は仕事の帰りに、よくラジオで潮が口にしている「海見崎(うみみざき)の灯台」へと足を延ばした。夕暮れ時、茜色から群青色へと移り変わる空と、どこまでも続く水平線。 風に吹かれながら波の音を聞いていると、少し離れたベンチに、一台のノートパソコンと古いマイクを広げている青年が目に留まった。 彼はヘッドホンを片耳に当て、何かを熱心に確認している。年齢は渚と同じくらい、20代半ばだろう。少し癖のある髪に、穏やかな目元。 通り過ぎようとしたその時、彼の口から漏れた声に、渚は雷に打たれたように足を止めた。「よし、今日のマイクチェックはこれでいいな。……あ、カモメが鳴いてる」 間違いなかった。毎晩、耳元で聴き続けてきた、あの「潮」の声だった。 心臓が早鐘を打つ。声をかけるべきか、それとも逃げ出すべきか。渚が激しい葛藤に身をすくませた瞬間、強風が吹き抜け、彼女が大切に抱えていた図書館の資料のプリントが、数枚ふわりと舞い上がった。「あ、すみません!」 青年が急いで立ち上がり、風に舞う紙を鮮やかにキャッチしてくれた。彼は笑顔で「はい、どうぞ」と紙を差し出す。間近で聞く彼の声は、ラジオで聴くよりも少しだけ高くて、とても温かかった。「あ、ありがとうございます……」 渚は緊張のあまり、消え入りそうな声で応えるのが精一杯だった。「ここ、風が強いですからね。……あ、もしかして図書館の方ですか? その資料のロゴ」「えっ、あ、はい。近くの町立図書館で働いています」「そうなんですね。僕、あの図書館の静かな雰囲気が好きで、よく行くんです」 潮――本名を「一ノ瀬 航(いちのせ わたる)」というその青年は、人懐っこい笑みを浮かべた。彼は自分が夜にラジオをやっていること、この灯台の近くにある古いプレハブ小屋が臨時のスタジオであることを、気さくに話してくれた。 渚は、自分が「砂の文字」であることを言い出せなかった。もし正体を明かして、今の心地よい関係が壊れてしまったら。そう思うと、ただの「図書館の司書」として彼と話すだけで胸がいっぱいだった。 * それから、航は時折、昼間の図書館に姿を見せるようになった。 彼が探している郷土史の資料を渚が案内したり、おすすめの小説を紹介したりするうちに、二人の距離は自然と縮まっていった。 昼は「一ノ瀬さん」と直接言葉を交わし、夜は「潮さん」にラジオでメッセージを送る。そんな不思議な二重生活がひと月ほど続いた。 しかし、終わりは突然やってくる。町の再開発に伴い、その小さなコミュニティFMが今月末で閉局することが決まったのだ。 最後の放送の夜。渚は祈るような気持ちで、最後のメッセージを送った。『潮さん、閉局のニュースを聞きました。とても寂しいです。私は、潮さんの声に恋をしていました。もうこの声が聴けなくなると思うと、胸が張り裂けそうです。でも、あなたの言葉が私にくれた勇気は、一生消えません。今まで本当にありがとうございました』 ラジオから流れる最後の「シーサイド・モノローグ」。 航の声は、いつも通り穏やかだった。そして番組の終盤、彼はいつものようにメッセージを読み始めた。『最後に、僕がずっと気になっていたリスナー、砂の文字さんからの便りです。……僕の声に、恋をしてくれたんですね。ありがとうございます。実は、僕もあなたに伝えたいことがあります』 航は一呼吸置き、静かに言葉を続けた。『砂の文字さんが送ってくれるメッセージは、いつも僕の心を救ってくれました。言葉の端々から伝わる優しさや、少し不器用だけど真っ直ぐなあなたの姿勢に、僕はいつの間にか、引き込まれていました。……もし、これが届いているなら、明日の夕方5時、あの海見崎の灯台に来てください。僕はそこで、あなたを待っています』 渚はベッドの上で飛び起きた。涙が溢れて止まらなかった。彼は、私の正体を知っているのだろうか。それとも、まだ見ぬ「砂の文字」に向けて話しているのだろうか。 * 翌日の夕方。水平線が黄金色に染まる頃、渚は海見崎の灯台に立っていた。 潮風が彼女の髪を激しく揺らす。灯台の麓には、すでに航が待っていた。彼は渚の姿を見つけると、驚いたような、しかしすべてを察したような優しい笑みを浮かべた。「来てくれたんですね、橘さん。……いいえ、砂の文字さん」 渚は目を見開いた。「気づいて……いたんですか?」「確信したのは、ハーブティーの話をした後、図書館で橘さんが僕に同じハーブの入ったお茶をおすすめしてくれた時です」航は少し照れくさそうに頭を掻いた。「文字の癖や、選ぶ言葉の優しさが、僕の知っている『図書館の橘さん』とそっくりだったから。でも、橘さんが隠しておきたいなら、僕も知らない振りをしようと思っていました。だけど、最後のラジオだから、どうしても誤魔化せなくて」 航は一歩、渚に近づいた。その瞳には、夕日の光と、真っ直ぐな強い意志が宿っていた。「僕は、ラジオの向こうの『砂の文字さん』に惹かれていたし、目の前にいる『橘渚さん』に、どんどん恋をしていきました。電波がなくても、僕の言葉を、これからはあなたの隣で届けてもいいですか?」 渚の視界が、涙で再びにじんだ。彼女は何度も何度も深く頷き、航の胸に飛び込んだ。 彼の手が渚の背中に回り、優しく抱きしめられる。耳元で聞こえる彼の心音は、毎晩聴いていたあのラジオの声と同じように、暖かく、心地よいリズムを刻んでいた。 波の音が、二人の始まりを祝うように、静かに、優しく響き渡っていた。
コメント
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うわ、すごくいい話だった……! ラジオ越しの距離感と、図書館での偶然の出会い、両方の視点があって甘くて切なかったです。特に、航が“知らないふり”をしてくれてたっていう優しさ、胸にきました。最後の灯台のシーン、夕日と潮風が浮かぶみたいで、涙がじんわり出ました。騙し合いじゃなくて、お互いを想い合って自然に近づいていく感じが本当に素敵です。第3話も読みたい…!🌊📻