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ある日の夕暮れ時。薄暗い研究所の地下を、痩せこけた黒髪の少年がゆっくりと歩いて行く。彼の名はクロム。所長、ストロン博士の甥で、この研究所の雑用係である。今日も今日とて、彼は単調な労働に追われていた。
「あーあ、めんどくさいなぁ…中身すっからかんとは言え、結構重いし…」
クロムは、ぶつぶつと文句を言いながら、腕の中にある何かを抱え直す。それは、惨い人体実験の末に亡くなった被験者の遺体だった。
「君は幸せだね。これ以上苦しむことなく、解放されたんだから」
そう、遺体を管理し、処理するのが彼の仕事だ。わずか十三歳の少年に与えるにはあまりにも過酷な仕事だが、日々惨い人体実験が行われているこの場所では、人の死など日常茶飯。彼に取っては慣れたものだった。
「…僕にしか出来ない仕事、か…」
彼はそう呟いて、抱えていた遺体を焼却炉に放り込み、扉を閉めると、何の躊躇いもなくスイッチを入れる。遺体をゴミのように扱うその姿は、美しい顔立ちも相まって、この世のものとは思えないほど異様なものであった。
「結局、最後はみんな同じだな…」
彼が、焼却炉に燃え残った骨片を眺めながら、ぽつりと呟いた時だった。
「クロム!」
荒々しい叫び声が地下のフロア全体に響き渡り、怒りに顔を歪ませたストロン博士が飛び込んできた。
「何故呼んでも来ない!いちいち手間を掛けさせるな!」
その言葉で、クロムは胸ポケットに入れた通信機を確認してみた。確かに、受信履歴は昨日のものが最新になっている。山奥にある建物の地下は、電波の接続が非常に悪い。博士が怒鳴りつけている間も、通信機は不安定な電波を拾おうと、微かにノイズを立てていた。
「はぁ…すみません。地下は接続が悪いもので」
クロムは、一切感情の乗らない、すげない態度で謝った。
「何だその態度は!」
激しい怒号と共に、乾いた拳が飛んで来た。更に、博士は捲し立てるように怒鳴りながら、床にうずくまるクロムを何度も何度も蹴りつける。
「何度も言っているだろう!私は誰からも必要とされないお前を拾ってやった!お前は我々家族に尽くして当然なのだと!それなのに私に口答えをするとは何事だ!」
クロムは、美しい顔を一切歪ませることなく、ただ黙って座っている。まるで人形のような無反応振りに、博士は嫌悪感を抱き、ますます苛立ちを募らせた。
「幼い頃は痛めつければ言うことを聞いたと言うのに…随分と生意気になったものだな」
「……」
クロムは、据わった目を一点に向けたまま、何も答えない。
「何とか言ったらどうだ!」
激しい怒号と共に、博士が再びクロムを蹴ろうとしたその時だった。
「やめろ!」
地下室に、轟くような声が響き渡り、二人の間にコバルトが割って入った。
博士はぴたりと動きを止め、鋭い眼光で彼を睨みつける。
「コバルト=ベックフォード…何のつもりだ?」
博士の圧倒的な威圧感にも、コバルトは一切屈することなく答えた。
「それはこちらの台詞です。子ども相手に暴力を振るうことなど、許され…」
「あー博士!」
コバルトの言葉を遮るように、セレンがわざとらしいほどの大声をあげた。
このままコバルトが博士の機嫌を損ねれば、自分たちも、そこにいる少年もただでは済まないだろう。何とかして博士をこの場から退かせる他ないと、セレンは瞬時に判断する。
「そういえばさっき、カーボ先輩が探してましたよ!早急に確認をお願いしたい資料があるとかなんとかって!」
セレンは、事実を大袈裟に、そして、焦っているように見せかけてまくし立てた。その言葉を聞くと、博士は小さく舌打ちをし、「そうか」とだけ呟く。
不機嫌そうな顔でクロムを睨んだ後、渋々立ち去った。
博士が立ち去ると、コバルトは、つい感情的になってしまったことを反省し、セレンに謝罪をした。
「…セレン、済まなかった」
「良いってことよ。それより、今はその子の心配が先だ」
セレンは言うや否や、座り込んでいるクロムの隣にしゃがみ、尋ねた。
「君、怪我はないか?」
「平気だよ。蹴られたの、背中だから」
クロムは、愛想笑いを浮かべながら、淡々と答えた。
「警戒しなくて良い。俺たちは、君の味方だ。君に危害を加えるようなことはしないし、もし困っているなら、力になりたいと思っている。」
コバルトが優しく言葉をかけると、クロムは一瞬驚いたような顔をして振り返った。
しかし、すぐに元の虚ろな表情に戻って、淡々と言い放つ。
「…お兄さん、随分命知らずだね。僕の味方したって、博士に嫌われるだけだよ。やめた方が良い」
「あぁ、分かっている。だが、それでも君のことを放ってはおけない。」
コバルトが迷いなく答えると、クロムは彼をじっと見つめた。赤く、大きく、憂いを帯びた瞳に見つめられ、思わず吸い込まれそうになる。
「…そっか」
彼はフッと笑って言った。
「世の中、変な人もいるもんだ。…それじゃあ、ちょっと協力してくれる?」
「ああ、もちろんだ。では早速…」
コバルトは迷いなく答えたが、セレンはそうはしなかった。
「待った。その前に、お前のことについて詳しく聞かせてもらう。協力するかどうかは、それからだ」
その言葉を聞いて、クロムはほんの一瞬眉を潜めたが、すぐに素直に頷いて言った。
「…そうだね。確かに、相手のことをよく知らないまま手を貸すのは、リスクが高い」
そして、淡々と語り始める。
「僕は、クロム=ローウェル。十三歳。ストロン博士の甥で、この研究所の雑用係だ。主な仕事は、霊安室の管理と、遺体処理、それから、研究所内の掃除ってところかな」
彼は、にこやかながらも感情の読み取れない表情で自己紹介をした。その声には、一切抑揚がない。自己紹介と言うよりは、ただの情報の羅列であった。
コバルトは、その言葉に耳を疑った。霊安室、遺体処理…自分たちよりも歳下の少年が、そんなワードを当然のように口にする現実に、彼の心はざわめく。
「…待ってくれ。…君は、それほど過酷な 仕事を、一人でやらされているのか…?」
コバルトの震えるような問に、クロムは涼しい顔で答える。
「あぁ、そうなるね。でも、仕方がないんだ。こんな仕事、誰もやりたがらないからね」
そう言って、彼は困ったように笑って見せた。その笑顔は、あまりにも無垢であった。しかし、その内容との乖離に、セレンは違和感を覚えた。彼は、クロムをじっと見つめ、静かに問う。
「なるほどな。お前の置かれてる状況は、だいたい分かった。でも、いくつか気になることがある。お前は、自分が不当な扱いを受けてることに対して、どう思ってんだ?それと、博士に対しても、全然怯えたり、腹を立てたりする様子もなかったよな?あれは、慣れてるからか?」
クロムの顔が、僅かに引きつった。
「…さぁね、何とも思ってないんじゃない?…僕に取っては、昔からそれが当たり前だったから」
まるで他人事のような言い種に、二人は困惑して顔を見合わせた。この少年の心は、一体何処にあるのだろうか。そんな疑問が、二人の中に深く沈む。
沈黙を破ったのは、クロムだった。彼は、再び底知れない笑みを浮かべる。
「…少し、困らせちゃったみたいだね。それじゃ、本題に入ろうか」
彼の声は、先ほどまでの無感情なトーンとは異なり、どこか計算めいた響きを帯びていた。セレンは、探るような目で彼を見つめる。
「僕がお兄さんたちに協力してほしいのは、食糧調達だ。さっきのを見て何となく分かったと思うけど、博士はよく、ああやって僕に八つ当たりをしていてね。今日は暴力だったけど、時々、食事を抜かれる時期もあるんだ」
クロムは、遠い国の天気の話でもしているかのように、淡々と続ける。
「ほら、僕の仕事って、体力が要るものばかりだろ?だから、食事を抜かれると、かなり支障が出るんだよね。で、そうなると、また博士の機嫌が悪くなる訳だ」
何とも理不尽な話に、コバルトは気の毒がった。
「そうならないために、事前に非常食を蓄えておきたいんだけど…僕は食糧庫を開けられないし、もし入れたとしても、誰かに見つかったらまずいからさ。お兄さんたちの深夜巡回の時に、こっそり入らせてほしいんだ」
随分あっさりとした頼みに、コバルトとセレンは拍子抜けした。
「本当に、それだけでいいのか…?」
コバルトが思わず尋ねると、クロムは相変わらずにこやかに答える。
「あぁ。お兄さんたちは、巡回の日に食糧庫の鍵を開けて、終わる頃にかけ直してくれるだけで良い。そうしたら、僕の知ってる情報を何でも教えてあげるよ」
彼の視線が、ゆっくりと二人を往復する。
「どうだい?お兄さんたちに取っても、リスクは小さいし、悪い話じゃないと思うけど」
クロムの頼みは、コバルトの倫理観だけでなく、セレンの合理性にも直接訴えかけるものだった。彼が何を考えているかは、まだ分からない。しかし、この提案には無視出来ないメリットがあった。
セレンは、熟考の末に答えた。
「…分かった、協力する。オレたちの巡回の日は火曜の終業後だ。それじゃ、そろそろ仕事に戻る。またな」
そう言い残し、彼はコバルトを連れて地下フロアを後にした。
その後、コバルトとセレンは、放り出して来た資料室の整理をしに戻っていた。その道中で、コバルトは不安気に言った。
「セレン…俺たちは、クロムをあの場所に置いてきて良かったのだろうか。あのままでは、また博士にひどい目に遭わされてしまうような気がするが…」
セレンは隣を歩くコバルトにちらりと視線を向け、平然と答える。
「今のところは放置で大丈夫だろ。オレたちに出来ることなんてほとんどねぇし、あいつもオレたちにそこまでのことを求めてる訳じゃない」
しかし、そう言い切った後で、彼は訝しげな表情を浮かべた。
「でも、警戒はしといた方が良さそうだな。…あいつは、何考えてるか分からない。お前も見ただろ、あの態度」
言われてみれば、確かに不審な点はある。助けを求めているとは思えない、飄々とした態度。自ら境遇を、まるで他人事のように話す口振り。一切感情の見えない、虚ろな瞳。
(きっと、心が壊れてしまっているだけだと思うが……)
コバルトは、一抹の不安を抱えたまま、仕事へと戻るのだった。