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コバルトとセレンが研究員になって、一ヶ月が経った。 もう仕事にも慣れ、物的証拠も着実に集まりつつある。計画は順調に進んでいると言って良かった。
二人が昼休憩から戻ると、バークに声を掛けられた。
「ベックフォード、カートライト。そこの倉庫の資料を整理しに行け。ここ数年分の取引記録らしいが、どうも分類がされていないらしい」
彼は、コバルトたちの返答を待つことなく、ただ指示を投げるだけ投げて、自分の仕事へと戻っていった。
二人は、言われたままに、事務室の隣にある倉庫へと足を踏み入れる。埃っぽい空気が、冷たい土の匂いと混じって鼻腔を刺激した。切れかかった蛍光灯の光の下、積み上げられた段ボールの山が、薄気味悪く影を落としている。
指示されていた棚を開けると、そこには『売り上げ品目』『品卸一覧』『廃棄品目』と手書きされたファイルが乱雑に詰められていた。
二人は一旦、それらを全て棚から出し、部屋の中央にある長机の上に広げた。コバルトが、それらを古い順にまとめようと、中身を確認する横で、セレンは埃っぽいファイルを次々と手に取っていた。
「これと、これと……あとこれも行けるな」
彼は、まるで宝探しでもしているかのように、楽しげに呟いている。
「何をしているんだ?」
コバルトは、思わず声を潜めて尋ねた。不審な行動ではないが、妙な手際で資料を選別するセレンの様子に、少し違和感を覚えたからだ。
セレンは、手を止めることなく答えた。
「もう紙がボロボロの資料集めてんだよ。これだけ傷んでりゃ、『これもう紙がボロボロなんで、読めるうちにデータ化しときますね~』とか言って、堂々と事務室に持って帰って情報を引き抜けるだろ?」
その大胆過ぎる戦略に、コバルトは呆気に取られた。周囲に研究員がいないとは言え、本当にこんなことをして大丈夫なのだろうか。しかしセレンは、その不安を意にも介さず、次のファイルを漁り始めていた。その瞳の奥には、確かな目的の光が宿っている。
(大胆にも程があるな…)
その肝の据わり具合に、コバルトは半ば呆れるやら感心するやらで苦笑した。
そして、何気なく目の前にあった『売り上げ品目』のファイルを手に取り、開いてみた。すると、彼の想像を遥かに超えるおぞましい文字列が、目に飛び込んできた。
【被験者No.2:Neon Gibson】【品目:腎臓®、肝臓、眼球(L)】【処理日:1997/1/4】
最初の一行を目にした途端、コバルトの心臓が凍り付いた。
ネオン=ギブソン。その名は、コバルトが失っていた、幼い日の記憶を一気に呼び覚ました。
(…ネオン……そうだ、思い出した……俺は… 俺は、あの日…!!)
それは、コバルトがこの場所に来るまでの記憶だった。
院長の怒号が響く、薄汚い孤児院で他の子どもたちと肩を寄せ合うようにして過ごした日々。奴隷のように働かされ、出来が悪いと蹴りつけられた毎日。そんな中で、「いつかこんなとこ出てってやる」と息巻いていた、一つ歳上のネオン。彼は、コバルトを弟のように可愛がり、持ち前の明るさでいつも笑わせてくれていた。そんな彼と過ごす時間が、コバルトは大好きだった。
しかし、ある日突然、ネオンは姿を消した。院長に訳を聞いても答えてもらえず、悲しみを抱えたまま日々が過ぎて行く。
そして、六歳になって間もない頃、この場所に連れて来られ、ネオンと再会した。しかし彼は、その時にはもう、檻の中で冷たくなっていたのだった…
( 俺は…どうしてこんな大事なことを……!ネオンだけじゃない……他のみんなも…グレース・フィールド孤児院から……)
呼吸が、喉の奥で詰まる。目の前が霞み、吐き気が胃の底からせり上がってくる。暖かい思い出と、冷たくなっていたネオン、そして、目の前の忌まわしいデータ。それらが、渦巻くようにぐるぐると頭の中を巡っている。
これは、単なる実験の失敗記録ではない。被験者たちが、死後も尚、最も残酷な形で利用されていた証だった。
「…悪い」
コバルトは短く呟き、口元を手で覆いながら倉庫を飛び出した。
「ちょっ、コバルト!?お前、どこ行くんだよ!?」
コバルトは、トイレに駆け込むや否や、洗面器に頭を突っ込んだ。胸につっかえていたものを吐き出すと、震える手で何とか蛇口を捻って、そのまま膝から崩れ落ちる。
その後は、しばらく洗面台の前で膝をついたまま、動けなかった。胃の奥から込み上げる吐き気は収まってきたものの、喉に残る気持ちの悪い酸味と、脳に焼き付いたリストの文字が消えない。かつての友人が、非人道的な実験の末に亡くなり、身体をバラバラにされ、商品として売られていた。その事実に、彼の精神は悲鳴をあげていた。
震える足で立ち上がると、そこには、顔面蒼白で、深い絶望の宿った目をした自分が鏡に映っていた。それでも、何とか仕事に戻ろうと、コバルトは重い足取りでトイレを出た。
廊下に出ると、そこには床を黙々とモップで拭いているクロムがいた。彼は、感情の見えない微笑を浮かべ、淡々と作業をこなしている。コバルトは、視線を逸らそうとしたが、クロムのモップが彼の足の前で止まった。
「こんにちは、コバルトお兄さん。何だか、随分顔色が悪いね。その様子だと、精神的に参ってるってところかな」
クロムの声は、相変わらず、抑揚のない平坦なトーンだった。その無感情さが、憔悴しきったコバルトの心に更に重圧をかけるようだった。
彼は、答える気力もなく、ただ黙ってクロムを見つめる。その冷淡な声に、彼の抱える言い表しようがない孤独と、底知れない闇を感じ取ったからだ。クロムの瞳は、まるでガラス玉のように一切の感情を映さない。
「そんなお兄さんに、一つ良いことを教えてあげるよ」
クロムは、モップを壁に立て掛けると、コバルトの目を真っ直ぐ見つめて言った。
「感情的になったって、何も良いことはない。生き残るためには、常に冷静であることだよ」
その言葉は、冷たい氷の刃のように、コバルトの心に深く突き刺さった。無意識のうちにずっと封じ込めていたトラウマが蘇り、かつての友の残酷な最期を知った今、どうして冷静でいられると言うのだろうか。到底受け入れられない言葉だった。だが、コバルトはクロムに言い返す気は起きなかった。彼の言う『冷静さ』は、彼自身に取っても、この過酷な環境を生き延びるための唯一の手段なのだろうと、察したからだ。僅かに重々しい彼の声からは、幼い身体で耐えてきたであろう、想像を絶する苦しみが透けて見えるようだった。
コバルトは、その異質な存在に寒気を覚えると同時に、微かな悲哀を抱いた。
しかし、このまま廊下に立ち尽くしている訳にも行かない。先ほどは、セレンに何も言わずに飛び出してきてしまった。きっと、心配を掛けているに違いない。
「……行かなければ…」
コバルトは、掠れた声で呟いた。無理にでも仕事に戻ろうと、震える足に力を込める。
しかし、クロムはそんなコバルトの様子を一瞥すると、何の感情も込めていない声で、しかしはっきりと告げた。
「その状態で仕事に戻る方が、心配掛けると思うよ」
コバルトの体が、微かに固まった。確かに、クロムの言うことは最もだった。このままの自分を見せれば、セレンはきっと動揺するだろう。
「今日は、もう自分の部屋に戻った方が良い」
クロムは、まるで子供に言い聞かせるように、淡々と続ける。
「セレンお兄さんには、僕から言っておいてあげるからさ」
その言葉は、冷たい氷のようにコバルトの心に響いた。
今の自分では、セレンの足手まといにしかならない。そして、クロムの言葉には、どこか逆らえない響きがあった。コバルトは、抗う気力もなく、ただ頷くことしかできなかった。
クロムは、それ以上何も言わず、再びモップを手に取り、黙々と床を拭き始めた。その背中を見つめながら、コバルトはふらつく足取りで、自分の部屋へと向かった。廊下に残されたのは、消毒液の匂いと、淡々としたモップの音だけだった。
一方、セレンは、先ほど倉庫から駆け出して行ったコバルトの姿が気になっていた。彼の顔色は異常なまでに青ざめ、尋常ではない様子だった。何かあったのだろうか。急いで倉庫を出て、コバルトを探し始めた。
廊下の角を曲がると、モップを持ったクロムが淡々と床を拭いているのが見えた。相変わらず、感情の欠片もないからくり人形のような動きだ。
「クロム、ちょうど良いとこに。コバルト見てないか?さっき、急に倉庫から飛び出してったんだけどさ」
セレンは歩み寄り、簡潔に尋ねた。
クロムはモップの動きを止めず、視線だけをセレンに向けた。そのガラスのような瞳が、セレンの顔を捉える。
「コバルトお兄さんなら、さっき会ったよ」
クロムの声は、いつものように平坦で、何の抑揚もない。
「随分憔悴した様子だったから、部屋に戻った方が良いって言っといた」
セレンの眉がぴくりと動いた。クロムがそんなことを言うとは、よほどのことだ。
「見たところ、かなり精神的に参ってるみたいだったから、後で様子を見に行ってあげた方がいいと思うよ。それじゃあね」
クロムはそう言い終えると、セレンの返事を待つことなく、再びモップを動かし、廊下の奥へと進んでいった。その背中には、一切の感情が読み取れなかった。
セレンは、残されたクロムの言葉を反芻した。精神的に参っている。彼がそんな状態になるなんて。やはり、倉庫で何か、とんでもないものを目にしたに違いない。セレンの脳裏に、先日見た『廃棄物』の処理記録がよぎる。
(とりあえず、今はこの事をバーク総務に伝えて、終業後に様子を見に行こう)
セレンは、逸る気持ちを抑えて、一応仕事に戻った。
コバルトの部屋へと駆け出した。彼の頭の中では、クロムの無機質な声が何度も繰り返される。「随分憔悴した様子だった」「かなり精神的に参ってるみたいだった」。彼がそんな状態になるなんて、よほどのことがあったに違いない。セレンの脳裏に、昼間に倉庫で見た『売り上げ品目』の無機質な羅列がよぎる。
コバルトの部屋の扉にたどり着くと、セレンはノックもせずに勢いよくドアを開けた。部屋は薄暗く、コバルトはベッドの端に座り込み、両手で顔を覆っていた。その肩は小刻みに震え、まるで何かに耐えているかのようだった。
「コバルト!」
セレンは駆け寄った。コバルトが顔を上げると、その目は赤く充血し、焦点が定まらない。頬は涙と汗で濡れ、ひどく青ざめていた。唇は震え、声にならない嗚咽が漏れる。普段の彼からは想像できない、見るに耐えない姿だった。
「大丈夫か!?何があった!?」
セレンはコバルトの隣に腰を下ろし、彼の肩を掴んだ。その冷え切った震えが、セレンの手にも伝わってくる。
コバルトは首を横に振るだけで、何も言葉を発せない。震える指先で、事務服のポケットからくしゃくしゃになったメモを取り出した。それは、昼間、彼が倉庫で整理していた資料の一部だろうか。
セレンがメモを受け取ると、そこに走り書きされた言葉が目に飛び込んできた。
【被験者No.2:Neon Gibson】【品目:腎臓®、肝臓、眼球(L)】【処理日:1997/1/4】
その文字を見た瞬間、セレンの表情が硬直した。彼の脳裏で、昼間に見た『売り上げ品目』と、自身の考える中で最悪の推測が、おぞましい形で結びつく。息を呑むほどの衝撃が走ったが、セレンは懸命に感情を押し殺した。
「……やっぱりか」
セレンは、絞り出すように呟いた。信じたくないとは思いつつも、彼が漠然と想定していた最悪の可能性が、目の前の紙切れによって裏付けられていた。身体の奥から湧き上がる嫌悪感を、彼は必死に抑え込む。
コバルトは、そんなセレンの様子も目に入らないかのように、さらに体を丸め、震え続けた。
「……大したこと、じゃ……ないんだ……明日には…治る…」
震える声で、必死に誤魔化そうとするコバルト。しかし、その言葉は途切れ途切れで、到底「大したことない」などとは言えない状態だった。
セレンは、メモを静かにテーブルに置くと、コバルトの肩を強く掴み直した。
「馬鹿言うな、コバルト。こんな状態で一人で抱え込んだって、自分をもっと追い詰めるだけだ」
セレンの声は、普段の軽さとは違い、真剣な響きを帯びていた。その真っ直ぐな瞳が、コバルトの奥底を見透かすように彼を捉える。
「オレたちが、何のために一緒にいると思ってる?ちゃんと話せよ」
その言葉が、コバルトの中で張り詰めていた何かを、プツンと切った。
「……ネオンが……ネオンが……っ!」
堰を切ったように、コバルトの口から嗚咽と共に言葉が溢れ出した。声にならない悲鳴が部屋に響き渡る。友人の名が、彼の絶望の深さを物語っていた。コバルトは、震える手でセレンの胸元を掴むと、見るに堪えない、醜い真実を、全て打ち明けた。あの日、自分がこの研究所に連れてこられた時に見たネオンの遺体。そして今、データで知った、その後のあまりにも残酷な末路。更に、ほとんどの被験者が、自分の生まれ育ったグレース・フィールド孤児院から来ていたこと。言葉にすればするほど、胃の奥からこみ上げてくる吐き気に、彼は何度も言葉を詰まらせた。
セレンは、友の無残な真実に打ちのめされながらも、コバルトの告白を黙って聞き続けた。その一つ一つの言葉が、この研究所の闇の深さを、そして彼らが対峙している現実の重さを、改めてセレンの胸に突きつけた。
セレンは、震えるコバルトの体を抱きしめた。温かい体温が、かろうじてコバルトの震えをいくらか落ち着かせる。
「大丈夫だ、コバルト。オレがいる。一人じゃない」
セレンは、普段の冷静な自分からは想像できないほど、優しく、そして力強くコバルトの背中を叩いた。彼自身もまた、友の無惨な真実に打ちのめされていた。だが、今、この瞬間に、コバルトを支えなければならない。それが、彼らが掲げた「夢」への第一歩なのだから。
部屋の外では、深夜の研究所の静寂が、まるで二人の苦しみを嘲笑うかのように、深く、重く横たわっていた。