暑い日だった。白い光に覆われる感覚で、ふと悟る。涼しく甘く酸っぱく、幸せな貴方との夢を惜しみながら、いつものように、私は瞼を開く。
────「おはよう」────
あーあ。
全身に帯びた微かな熱。それは死から離れた感覚だと、十二分に理解する。夜は必ず永眠するつもりで目を閉じているけれど、成功した試しはこれまで、おそらくこれからもない。
唸るように欠伸をしながら身体を起こす。
床には折れて破れて散らばった紙の、束。昨日、暴れながら棄てようとしていた日記の残骸たちだ。埃が舞う隅に追いやられているのは、黄ばんだテープで覆われた原稿用紙。
夢のなかで溶けちゃいたかったのに。
なんで貴方は殺してくれないの?
生きないといけない。暗い絶望が体内を駆け巡る。死にたい。最悪。私が発したそれらは一切の重みも深みも無く、単なる日常として室内を充満している。
視界を断絶して口から息を吸う。クーラーが切れている。茹だってしまいそうだ。瞼を擦って汗ばんだタオルケットを剥いだとき、
カツンと乾いた音がした。完全には覚めていない体を転がせてカーテンを引っ張り、窓を開ける。探すまでもなく彼は居る。自販機の向かい、電柱の脇に立つコンクリート塀の上。そこが定位置。
私の寝ぼけた顔を見あげて微かに目を細めると、彼は、手の中に持つ砂利を放して、両足を揃えて、弾んだ動きで着地した。
三角形に折り畳んだ脚を抱く青い腕。隠しきれない骨と関節の頼りなさを恥じるように、頭を垂れて唇を噛んでいたのを見つけたのは、休学して間もない夏の日だった。
コンビニ袋を提げて歩く、いつもの景色に、痩せ細った少年が座り込んでいた。蝉が鳴いていた。
「カップ麺、余ってるんだ。食べに来なよ」
慣れない酒に酔っていたせいもあるかもしれない。すごく怪しい台詞を投げかけてしまった気がする。けれど、放っておけなかった。透けそうな肌の少年は、私が通り過ぎた途端に硝ガラス細工みたいに壊れてしまうのではないかと怖くなったから。
よれて皺ばかりの服と穴の空いた靴で彼の状況は容易に見当がつく。私がしなければいけないことなんて決まっている。でも警察署へ連れて行こうだなんて思いもしなかった。
希望のかけらもない表情も、光なんて存在しないとでも言いたげな乾いた瞳も、膨らみのない固そうな皮膚も、まるで精巧にできた彫刻みたいだったのだ。
美しくて、惹かれた。
猛暑日の真昼にそぐわない儚さが、特大の引力となり私を導く。そんな錯覚を受ける。
いけないこと? かまわなかった。
折れそうな腕を無抵抗に引かれて歩く彼の瞳に映る、鋭い太陽の粒子。脳内にちらついた、ダイヤモンドという単語にぴったりな子だと思った。
今日で、あれから三週間と六日が経つ。
【ダイヤ】は簡単に私に懐いた。プロフィールは何も知らないが、彼は年相応のように話すし、少し大人びた表情で笑う。
「私が誘拐犯だったらどうするの? 食事を与えただけで安心するなんてちょろすぎでしょ」
「僕のこと欲しがる人なんていませんよ」
「そうかもね」
ひどい!と楽しそうにダイヤが言う。
私は二人分の菓子パンの包装を破って相槌にする。リンゴジュースを飲み干したダイヤが、宝物を探し当てたような顔で砂糖と粉の混合物を齧る。
嫌だ嫌だ嫌だ、嫌い嫌い嫌い。
コミュニケーションがあまり得意じゃないようですね。
小学四年生の三者面談で、担任が【可哀想な子】でも見るように言い放った。協調性がなく、いつの間にか輪を外れている。喋り出そうと口を開いたら、急に泣き出す。
もう遊ばない、と当時クラスのボスだった女の子に言われた。笑い方が変。いてもつまんない。だから誘わない。
ペアで話し合いをしましょう。ランダムで席を替えて、私が隣だと知った途端に相手の態度が露骨にぞんざいになるのは、中学でも高校でも変わらなかった。
そして一年前、私の元に現れた神様も散った。
奇跡だと思った人との巡り合わせは、私の全てを奪い掻き乱して、絶望だけ置いて去る、なんてそれだけの運命を担っていたのだろうか?
【はずれ】の自分と同じ匂いがしたから連れ帰った。私のように枷に足を縛られて沈む仲間かと思ったのに。蓋を開けてみれば彼はすごく真っ当で、決して特別ではない男の子だった。
こんなのまるで夢物語だ。私は恩人になりたかったわけじゃないのに。夏が終われば、彼は憑き物が落ちたように別人になって、世界へ帰って行くのだ。そして未来できっと、救世主という称号なんかを私に与えてしまう。
いや、ダイヤモンドの輝きに泥を掛けたのは私?
私があのとき柄にもなく通り過ぎなかった末路がこれなんだ。助けたから宝石のような正常な光を放つようになってしまった。苛立つのも虚しいのも自分のせいでしかないのに、いったい何を期待していたんだろう?
私は聖人にも蜘蛛の糸にもなれない。一緒に溺れてくれる可哀想な生贄に、私が浮かぶ為の踏み台にしたかっただけ。
だから、叶わないなら捨てなければ。
コメント
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私だったら「救世主」の称号が欲しくて行動しそうだなぁ。嫌な奴。 なんとなく、そういう人間じゃダイヤは光らなかったような気がしました。主人公にとってはあまり喜ばしいことじゃないのかもしれないけれど。 私は読解力があまり無いので、物語をちゃんと掴めてるかはさておき、いつ見ても本当に綺麗で美しいありかさんの文章が好きです。続きも楽しみにしてます! 長文失礼しました┏○
ありかさんの作品ってなんでこんな興味を引かれるんだろぅ…
儚い